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更新日:2020年11月25日

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補充兵の履歴書 (宝田・男性・71歳)

 昭和16年4月15日、臨時召集で東部74部隊に入隊する。
補充兵なので各種教育を受ける事になる。其の7月本部隊は出動して又召集者が入隊する。運悪く雨続きで傘をさして着物で入隊して来る。俺は市川憲兵隊へ補助憲兵教育の勉強に通う。町は洪水で土俵の重なるを見て故郷を思う。教育が終り、本隊用の使役に大塚と新兵の3人、板橋の兵器敝へ行くことになる。
宿営先は板橋2丁目、矢作様宅で大変なもてなしを受けた。1週間位で終り、隊に帰り自動車の操縦教育を受ける。10月一等兵に進級し一装興に身を包み、2泊3日の外泊を与えられ故郷へ親族廻りをして帰隊、翌日午後10時頃74部隊出発―品川で休息し12時50分発の軍用列車で一路宇品へ、窓は閉め、景色も見えず、宇品より舟に乗り門司で馬を積み、一路目的地へ 歌の文句じゃないけれど「さらば祖国よ栄あれ」と祖国を後にした。1週間天候にも恵まれ、目的地南支広州沙東に上陸、貫名部隊海老沢隊の補充用員となった。気候風土にもなれ、1ヵ月許りした頃歩兵部隊が続々集まり我が兵舎に同宿する。
 古兵の話では戦争があるとの事。一夜明ければ歩兵は姿を消し、友軍機はゆうゆうと広東へ返り、2大隊は発砲を轟かし我が隊に出動命令が下り、我が車は事務室前へとのこと。戦友上等兵見当たらず車を事務室前に着け中隊荷物、糧秣、その中に戦友も来て対空重機関銃を積み部隊と共に進軍、橋は爆破され、道なき川の上流を何とか通り、夕方大浦に着く。夜になり人家の焼残火赤くめらめらと犬の泣声あちこちと西も東も分からぬ辻に一人歩哨に立つ不気味な夜だった。

 翌日大浦陣地で本戦に入り弾丸の補給に務める敵弾の応襲もなく、敵機の影も見えず実弾演習の様だ。敵の退却は思ったより早く、次の陣地へ向う。道路には死人がキャタベラの下になり、ノシイカの如くなっていたり、戦争の現実へと向う。次の陣地は沙田。前の山裾では輺重隊が地雷に会い、人馬の悲鳴を聞き、陣地裏には敵砲弾の逆襲もあり、我が火砲にも故障が出る。しかし制空権を得た我が軍は、飛行機観測により、レームン、カルカッタ砲台を鎮圧し、勢にのった予備の小隊長が、ドンドン撃て等の号命も出た。
 其の後我が車は運転手、助手ともども歩兵の警備の手伝いをするため分遣するが、助手の俺は別に用はなかった。1から2か月して部隊に帰り、再編成され、本隊は転戦に向う。我等は防衛隊として残留する。

 彼方此方の分哨勤務。石山堀の陣地構築、ゴルフ場開墾、甘藷作り等して月日も過ぎ、翌年の部隊編成記念日には各隊余興して祝う事になり、2中隊の方では、国定忠治、赤城山等の噂も出るし、1中隊としては話も出ず、我が班として誰も言い出さず、中隊としても何か出さずばならずのようで、昔若衆が習った大漁節を話したら、衆議一致し、浴衣等の話もあったが戦地とて何もなく古兵が賛歌を作詩し、軍服姿でうかれた事もあった。
 その古兵帰郷し、大阪より新兵が入隊し、翌年は40歳位の補充兵も入隊し、その教育助手を命ぜられ、検閲に一発で4千米のむしろを飛ばし、其の後現地召集の時は各隊合同教育の助手も命ぜられ、教官助教も火砲の事はわからんとすべて俺にまかせ切り、教育も終り、解除になり、或日曜日の外出に大阪出身の助教と中京の親父さんの家へ呼ばれたこともあった。

 隊へ帰れば又陣地構築、野砲の洞窟作業、赤柱兵舎の尾根を両方より掘り進み、方向高低を合わせる。掘る音を頼りに何とか貫き通した時はほっとした。中隊全員の中で「山田上等兵の努力によって出来た」と賞められた。

 次は水源地下のタコ足洞窟始め。半月程経った頃、今度第二作戦命令に香港中央峠の裏側道路沿いに、野砲陣地を構築すべく、兵1名苦人3名を連れ「トウチカ」に住み仕事にかかる。8月16日作業に出発。辻の憲兵検問所で呼び止められ、日本の敗戦を知らされ、苦人を帰し帰営準備をして待てとの事。昨夜住所不明で伝えられなかったとのことであった。
隊へ帰れば軍書、奇書国旗、軍票等焼棄させられ、皆動揺し、共産兵になるか、舟を盗んで海を逃げるか。そうこうして居る中に、在留邦人に危害を受くる者が続出し、その警備に出動する。九竜駅に勤務中、英海兵隊員のいたずらに会い、武装解除され、其の後九竜通の分哨で黒人兵の接収により兵器を渡して捕虜となる。
1から2か月までの反対となり、日本軍がした通りの事を英将校の仕返しを受ける事になる。使役往復の駈足 ドラム缶の土担ぎ 黒人係のどぶ渫カモン、ハリップの声に悩まされつつ日を過す。その後船泊兵が帰った噂がたち、ついに21年2月、我等防衛隊も英国船の帰り、荷物となって香港を後にした。

 来る時と違い、海は荒れ、乗物に弱い俺は食欲もなく、従って通じもなく、舟倉の荷物となって、2月8日鹿児島港に着く。1週間の絶食、荷物を背負い、船腹を縄ばしごで下りる時、背を引かれる思いをやっと、こらへきて祖国の土を踏むことが出来た。

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