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遭難記(今だからこそ 三部 日本の地を離れて)
遭難記 (宝田・男性・71歳)
私は昭和18年1月、敵の潜水艦に乗船、「武洋丸」を沈められて3日間も漂流し、海軍に救助され、九死に一生を得た、その時のつらかった思い出の一節を綴ってみました。
夜光虫の美しい光(1日目の夜)
明るい処では見えない小さな虫だが、良く光るものだ。青にほんの少しの紫の付いた光だ。有るか無きかの消え失せる光だ。だが何百何千と集まると美しい。濡れた軍衣の袖や体に付いて波が来ると光り出す。腕を動かすと光る。何回も腕を動かして、その美しさに心を慰めていた。死の淵にいて、生きよう生きようと必死に救助を待つ身だが、この光の美しさには言葉に表わせない思い出があった。この美しさは、私の経験した死の淵で味わった、「平和な美しい光の思い出」だった。私の従軍日記の手帳にも、「遭難の袖に悲しき夜光虫」とある。
鱶(フカ)に食われる(2日目)
敵の砲弾や機銃弾にて戦死した者や、離船の際に怪我をしたものは、皆一晩で死んだ。
死体から流れた血の臭いに引かれたのか、フカが何十匹となく集まってきて、日中になり暑くなると彼等の行動も活発となり、初めにスーッと寄って胸びれで触って行く。動かないと見るや、手足首などをくわえて独楽のごとく廻りながら、海中深く引き込んで行く。手足や首のなくなった死体が、救命胴衣の浮力で海水を血で染めながら浮き上ってくる。死体は、何回も何匹にも食いちぎられて大きな肉の塊のようになり、海水が赤く濁ってくると、血に狂うのか何匹も集まって、奪い合うようにして一人はたちまち食い尽くされて、救命胴衣だけが海面に浮んでいる。
私達の10メートルのない近い処で、地獄のような光景が展開された。気の毒で見ていられなかった。薄墨色の大きな奴がスーッと来る。「来たゾ来たゾ」と木片や手で水面をたたく、足をバタバタやる。触られればどこでも構わず蹴とばすのだが、ヒラリとわきへ逃げて行く。何十匹もいるのだから防ぎようがない。遭難してひどい目に会い、死んだらフカやサメに食われたのでは、帝国軍人の南海の防人として出征した身には、家族や知人には知らせられない姿であった。
カボチャを食う(3日目)
炊事から転り出たか、日本南瓜が一個私の側に流れて来た。誰も生で食べられるとは知らなかったのか、この大勢の人数の中を流れ流れて、私の処まで来た。私は、とにかく野菜なのだ、食えば食えないことはあるまいと思い、拾って自分で持っていた。初めは見ていただけだったが、何も食うものはないのだから食べてみようと思い「おい皆、今この南瓜を拾ったから食べてみようとではないか。」と全員を起こして、八等分に銃剣で切り各人に渡す。皆も、食えるのかといった顔で手に持っていた。南瓜を生で食うのは初めてだが、一口食べて驚いた。
甘いのだ!!うまいのだ!!今まで食べたどんな食物よりもウマイと思った。うまいネと言うと、皆も口々に、「ウマイウマイ!!こんなうまいものは今まで食ったことがない。」と喜んでくれた。二日以上も何も食べていないし水も吞んでいないので、ウマイ!!と感じたのかもしれないが、実にうまく、実に甘く感じた。
幻影を見た(3日目)
昼過ぎの影一つない水平線上の陽炎のたつような中に、不思議にも、私の村「宝田」の入口から見た故郷の風景が浮かぶ!!部落のはずれにある鳥羽山の緑の美しい姿が見える。宝田の家並みが一軒ずつわかった。ああ、あれは小倉さんの家だ。あれは赤海さんの家だとはっきりわかった。特に中央のお寺医王寺の赤い屋根が一際大きく目に入り、屋根にある卍がハッキリと見えた。アッ!!俺の村だ、俺の家はもっと左の方だ!!と首を廻す。途端に頭から大波をかぶり、ブイがひっくり返されて海中に放り出された。ハッと気がついて、アッ!!まだ海の中だと気を引きしめ、シッカリシロ!!と自分に言いきかせた。
救助
3日目の夕方、軍艦長江に死ぬ寸前の命を救助された。3千余人の兵員のうち9百余人が助かった。この時、海軍の便乗兵達は、号令一下二列に並んでかなり遠い艦まで列も崩さずに泳いで行って乗船した。その気力、体力の強さは見上げたものだった。乗組員の中に房州南三原の者がいて、親切にしてくれた。名前を忘れ思い出せないでいる。30日の朝、パラオ港に横着された艦から海軍将兵に並んで見送られ、心から礼を言って上陸した。
こうして、パラオにて態勢をたてなおして、激戦地ラパウルへ前進したのです。
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