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更新日:2020年11月25日

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抑留生活 (吉倉・男性・70歳)

その一 捕虜部隊の移動!!

 終戦前、大連に移住していた私は、昭和20年8月1日、特別挺身大隊と云う新編成の新京都市防衛の部隊に召集されたのであった。20年8月20日、停戦と同時、我々の部隊もソ連軍の捕虜となって、ソ連領に連れて行かれたのである。

 ブラゴエに駐屯してソ連軍幹部の次の命令を待っていた我々に、移動命令が下った。移動に必要な食糧と色々な資材を貨車に積み、宿営地ブラゴエの街を後にした。我々はシベリヤおろしの吹き荒び、荒れ狂う突風の雹雨の嵐の中を行軍して行くことになった。戦闘帽をかぶっては居るものの頭にあたる巨大な雹で瘤が出来る。まるで、ピンポン玉かゴルフボール程の大きさである。今迄かつて見たこともない大きな雹である。びしょ濡れになってソ連兵の怒号に追われ乍ら、草原を逃げ廻る屠牛の如く!
 今迄は、いや黒龍江を渡るまでは実にお人好しだった警戒兵が豹変したのである。黒龍江を渡れば最早完全なるソ連領である。逃げることも隠れることも出来ないことを知っての上なのか、こんなにも残忍に豹変するものか?。さすが謎の国、黒いベールの国である。独裁的な鉄のカーテンのソ連である。
 世界の陸地の6分の1を占める広大な赤い国の恐ろしさと容赦なき警戒兵の残酷さに我々の誰もが度肝を抜かれたのである。執拗に付きまとい、恐るべき怒号と鞭は容赦なくうなる。まるで犬猫を打ちのめすが如く振りかかって来る。濡鼠となった我々捕虜の誰もが血の気を失い誰一人として抗議する者もない。
 だた黙々と追われるままに歩いて行かなければならない。何故ならば、それは一昨日あの銃殺事件で、抵抗しようとした者が、容赦なく銃殺されてしまった事があったからである。

 戦闘帽から靴下の爪先まで乾いている所など爪の垢ほどもない。何処へ行くのか何しに行くのか目的も行先も知らされず、ただ捕虜の列が続く。死ぬ事など少しも恐れぬ我々は、むしろ死ぬことが出来れば苦境からの解放であるのに―。
 我々は死を選ぶ事さえ許されないのである。肉体的な苦痛に加え、屈辱に抗する心の苦痛から虚脱化した無人格な我々の顔は目だけが異様に光って、一種の動物化した狂態であった。初めて知らされる敗戦国の屈辱、追われるままに死ぬことも出来ぬ捕虜の身となっていたのである。感情の高まりの中で、やけくそになって行くのであった。どうにでもするがいいや!。何等の感情をも持たない我々は最早、成り行きにまかせているより仕方がなかった。
 「馬鹿者(ヨッポイマ)!!早く歩け(ビステリーダバイ)!」。怒号と、銃床でこづかれ、帯鞁で打たれ、後ろからの兵が詰まれば、カチカチは防寒靴で蹴られ、列を抜け出すことも間を離すことも出来ず、ただ足にまかせて無気力に歩き続けなければならない。
 今に見ていろ、生きて故国に帰ったら、此の仇をきっと晴らしてみせるから!!。そう自分に言い聞かせながら歩き続けるのであった。雹雨が一段と激しく、雷鳴さえ交えて来た。畜生!、雹雨までが、人を馬鹿にしやがって、人を死に追いやろうとしてやがる。誰一人として声すら出さなくなっていた。時折苦痛の呻きが、何処からか聞こえるだけだった。

 何時間歩いたか、何10粁位歩いたか、更に覚えはないが、駅もなく人家も無い曠原に、黒々と停まっている貨物列車の前に着いて、初めて渡された黒パンの夜食。通訳の話に依ると、「食事が済んだら大便と小便を済ませて、此の貨車に1両90名ずつ乗車する様に命令があった」と言う。大小便を済ませるはいいが、一体、何処で、どうしたらいいんだ。囲いもない野原で用を済ませたことのない我々日本人は、どうしていいものか、見当がつかないまま突っ立ていた。
 「早くしろ!!時間が無い!!」、警戒兵が通訳を連れて走り廻る!!「其処へするんだ、自分の足元へ!」、我々は互いに顔を見合わせた。それでも、それぞれ用を済ませて貨車に乗込んだ。
 濡鼠のまま、鮨詰なって足を伸ばす隙間も無い膝を抱えているだけが精一杯である。それでも肩にめり込んだびしょ濡れの背嚢を肩から下ろすことが出来た。歩かなくても済むことが、せめてもの慰めであった。
 有蓋車の扉が閉ざされ、外から鍵が掛けられた。行先も目的も知らされぬまま捕虜を乗せた列車が、汽笛を鳴らして真暗闇の曠原へと走り出した。

その二 収容所にて初めて戦友が死す!

 第8収容所で初めて戦友が死んだ!彼は新京都市防衛のため我々と同じ特別挺身大隊が、昭和20年7月に新編成された時、補充兵として星一つで召集されて来た。見るからに弱々しい長身の細柄な好男子であった。
 国家が制定した制定した軍隊に階級が存在する中に二等兵として私の班に、私の部下として入って来たのである。私は彼をどんなにか庇ってきたことであろうか?、初年兵教育の時『捧げ銃!!』号令をかけても銃をまともに持っていられない彼だった。「新京には妻と母と2人の子供を残して来た。」と云っていたっけ!
 終戦と同時一緒に遠くここソ連領まで捕虜の身となって餓に泣き、寒さと闘い警戒兵の銃床で、こづかれ乍らどうやら今日まで生延びて来たのに―彼は死んだ。栄養失調で床について3日目だった。
 細々と彼の口から洩れてくる言葉は、子供と何か話しているらしい言葉だったが―。それも何のことか聞き取ることが出来ず絶えてしまった。夢うつつ病床の中で妻子に逢っていたのであろうか?せめて夢でもいいから逢うことが出来たらよかったのに・・・

 お通夜は彼宛の配給の一切れの黒パンの半分を霊前に供え、あとの半分を焼いて粉にして線香代りに白樺の木の皮をむいて灯し焼香した、兵長の読経のもとに薄暗い部屋でしめやかに行われた。兵長は召集前は、本職の僧侶だったと云っていた!
 彼は、千葉県山武群東金町の出身であった。私は同県人と云う立場ばかりではなく悪いことの出来そうな人でなく、その人柄と彼の正直な心うちに何となく親しみを感じていたのであった。特に彼の面倒は見てやっていた。何かにつけて庇ってやった。

 昭和22年7月、私は生まれ故郷に帰ることが出来た。そして彼の郷里、東金町の彼の家を訪ねて、年老いたお母さんと逢い、いろいろ捕虜生活のあれこれと、亡くなるまでの話をしてやった。其の時奥さんは、2人の子供と母を抱えて生活のため近所へ働きに出ているとのことで、お逢いせず、線香を手向けて帰って来た。
 其の後、私達引揚者の会で、彼の娘さん夫婦を遺族として、靖国神社参拝と温泉旅行に招待したら、娘さん(当時結婚されていた)と彼にとってはお孫さんになる可愛い女の子を連れて出席して呉れて非常に喜んでいられた。玆に謹んで彼の冥福を祈る。

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