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更新日:2020年11月25日

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満州からの引き揚げ (宗吾・女性・81歳)

 冴え渡る月の光を浴びて、遠い祖国を偲びあっていた夜のこと、突然見上げるような大男が踏み込んできた。見れば軽機関銃を肩に掛け、油ぎった顔のソ連兵、「女を出せ、出さねばこれをぶっぱなすぞ。」と手投弾をちらつかせている。皆震え上って言葉も出ない。子供達は大泣き、其の時、ロシア語の少しわかる老人がいて、身振り手振りで掛け合ってくれたが中々承知しない。次の晩も又。

 思えば8月10日「ソ連参戦明朝集団疎開」の報により熱河省赤峰を脱出し、石炭を運ぶ無蓋車に乗せられ、真っ黒になってここ北鮮の古邑に集団疎開したのだった。此の頃にはすでに持って来た非常食もなくなり、大根飯から大豆飯になり、皆消化不良となって1ヵ月余りの間に、3才以下の幼児は皆死んでしまった。隣のKさんも2人の子を亡くしてしまった。
 その上、時々町の役人が来て持ち物の検査、お金から時計、鋏まで没収されてしまって、悲しみのその日暮らしの中で、よもやと思っていたソ連兵に襲われるとは、なんと情なく悔しいことか。これが敗戦国民の宿命だろうか。毎晩の様に入れ替わり立ちかわり「女を出せ、女を」と踏み込まれる度に生きた心地がしない。あんなソ連兵の犠牲になって生き恥をさらすより、潔く親子もろ共、手榴弾の的になって死のうと覚悟をきめた。
 しかし、何とかしてこの場を切り抜けられないか。闇にまぎれて脱出しようか。でも、この身体で女や子供だけで方角も分からぬ38度線まで巡り着く事が出来ようか。見つかったその時はと考えるとなかなかふんぎりがつかない。

 ある晩、ものすごい泣き声にふと見ると娘の淑子がソ連兵に抱かれて大泣きし、必死にもがいているではないか。私はあまりの驚きに、一瞬声も出ない立ち上がることも出来ない。
「女を出せ、女を」とわめくソ連兵に他の子供達も皆親にしがみついて声をふりしぼって大泣き、余りの激しい泣き方に、さすがのソ連兵も淑子を離し、諦めたか、とうとう立ち去ってホッと胸をなでおろした。
 それから私達は、夜になるとぼろ布に包んだ鍋炭で顔にあざを描き、しらみだらけの髪をふり乱し、子どもをしっかりと離さずに眠れぬ毎晩であった。又町の溝掃除や貨車の積み下ろし、5キロも離れた山から松根油(飛行機に使う油)を絞った後の根ぼっか運び等、よろよろしながらの重労働が続いた。しかし、自決は最後の最後と固く誓って励まし合った。
 その頃、兵役解除になった元日本兵が尋ねて来て「ここ北鮮にいたのでは何時になっても日本へは帰れない。満州へ戻った方がいい。」と言われ、早速なけなしのお金を出しあって、汽車と運転士を買い、漸くここを抜け出す事が出来て、直ぐにでも内地へ帰れると喜んだのも束の間、安東で汽車も運転士もソ連兵に取られてしまった。

 ここで昭和21年を迎え、行商をやったり、中国兵の服の作業所へ働きに行ったりして稼ぎ、再びお金を出し合って奉天へ向った。またまた途中で汽車を取られ、散々苦労しながら、漸く奉天に辿り着いた時は、もう春3月になっていた。
 ここで兵役解除になったKさんの御主人と巡り合い、2家族6人が一緒に暮らすことになり私は露天商になった。或る朝、ふと見ると変なターチョ(荷馬車)、近付いて見ると紫色にふくれあがった足が車の両側にぶらさがっている。山と積まれた日本人の死体だった。みんな餓死と凍死か。自分達も何時あのような姿に、と思うと身を切られる様につらい。

 その後私はある人の世話で中国高官の宿舎へ女中として入った。言葉も性質も分からぬ中国人の中で、無我夢中で働いた。そのうち「お前はよく働くから子供を連れてきてもよい、部屋も与える。」と言われ、涙が溢れる程嬉しかった。今までコーリャンに岩塩をかけた物だけで栄養失調だった2人の我が子も、白米飯ですっかり元気になり、6月、出征軍人家族として引揚船に乗ることが出来た。

 翌年9月にはソ連に抑留されていた主人も無事生還し、3年ぶりに親子5人が漸く揃うことができた。

 それにつけても何回か訪れる中国残留孤児、一歩間違えば我が子もあの中の1人になって居たかもしれないと思うと感無量。はるばる尋ねた父母兄弟にも巡り合えずに帰るあの孤児達が哀れでならない。でもあの戦禍の中を、私共より北にいた開拓国の人達が親子無事に逃げのびる事はとても難しい事だったと思う。ソ連兵に追われ、力尽きて斃れても子供だけは何とかして助けたいとの親心から、やむなく中国人に預けそのまま命絶えたかも知れない。

 この世の地獄となった戦争の恐ろしさを思う時、我が身につまされ涙はとめどなく溢れてしまう。こんな戦争など二度とあってはならないし、又、孫や子にも絶対にこの苦しみを味あわせてはならないと念じている。

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