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更新日:2020年11月25日

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奇しき出会い (仲町・男性・73歳)

 中国大陸の夏は暑かった。中でも漢口の暑さは無類である。
昭和19年5月、又その夏が来たのである。
 しかし、その年は三寒四温、黄砂の季節が過ぎたにも拘らず、なぜか来る日も来る日も冷雨に見舞われていた。すでに中国南部侵攻の衡陽作戦が始動していたが私はこれに極部隊の参加を知ったのである。極部隊とは北支に駐留する大部隊であり、それには弟が確かに所属しているはずである。私は一兵卒の身ではあるが極部隊の情報を特に気にしていたのである。何故なら、この作戦では中支に於ける最大基地漢口に必ず立ち寄るに違いないと思ったからである。
 しかし、連日の雨で河南、湖北地帯の河川は氾濫し、路は失せ、この異状な事態に極の行動は知る由も無い。時を経て泥に塗れた極の尖兵を僅か見たに過ぎない。部隊主力は道なき泥濘に陥没し、車輛も馬匹も共に戦わずして寒さと飢えから脱出さえ出来ず、多大の犠牲を強いられていたのであった。弟の中隊は一体如何。
 数日して極の本隊が漢口に近接しつつあるとの情報を知った。やがて雨も晴れて燥々たる夏の到来である。泥と汗に濡れた極の主力が漢口入りして来た。
 車輛も馬匹も失ったその姿に苦闘の状況が伺われた。何と!偶然にも集団の中に弟の姿を発見することが出来たのである。彼は一体私との出会いを予期していたであろうか。知らぬ間に私は彼の傍に走り寄り、彼の隊列と共に行軍していたのである。

 「俺だよ!。」改めて泊所を訪ねることを約して私は原隊へ帰った。そしてその夜、許可を得て弟のもとへ走ったのであるが、さてこの奇遇を語り合うのみで他に言葉もなかった。

 極部隊は暫く漢口の地でその戦力を整備し、更に長江(揚子江)を渡河し目的地に向け南下すると聴く。私は弟の滞留中如何にして彼を慰労してやろうか。これが最善の心境であり、そして知る限り郷里の状況を語り合うことにあったのである。愈々その日が来た。私は隊の戦友(成田町土屋出身)を同道して弟の泊所を訪ね、弟を連れて長江岸の旧フランス租界を歩くことにした。赤い煉瓦造りの洋館に夾竹桃の花が照り映えて正に盛夏の趣は、束の間の平和の姿であったかもしれない。そこで一度行ってみたいと思っていた「ヘーゼルウッド」の店へ直行したのである。
開戦以来独乙租界に留って店を護ってきたと言う独乙人の経営になる小さなパン焼きの店である。ケースの中のシュークリームを皿一枚盛ってもらった。弟は定めし甘いものを欲しているに違いない。実は私もそうだ。

 話は祖母と母を残した郷里のこと、それに北支から延々1,200キロの大陸縦断の行動と、この戦争の結末は一体どうなるのであろうか?遠く異郷の地で兄弟水入らずの一時である。
 その翌々日愈々弟の部隊に長江渡河進攻の日が来た。私は朝霧に包まれた渡河地点へ足を運んだ、軍装も改まった弟の姿は逞ましく凛々しかった。
「元気でな」「兄貴もな」黄濁の流れを横に舟はいつまでも彼の軍装にクローズアップされて離れて行った。互いに武運長久を祈りつつ。

 それから3週間程して前線から下ってくる負傷兵の数は日に日に増して来た、極の兵士が多い。私は後送される松葉杖や包帯の兵に戦闘の状況を聴くことに懸命な毎日が続いた。だが何れも弟の〇中隊と離れてからはその状況は解らないと言う。元気でやっているのであろうな。更に数週間程経て、一人の兵士に巡り会った。〇中隊と言う、早速弟の模様を聴いた、口を黙して語ってくれないのである。暫くして、紙片れを求めてきた。
鉛筆と紙片を私は彼に与えた。彼は略図を描きはじめた。衡陽県は山岳重畳する險峻な地形である。略図を指差し乍ら第1第2と砦攻略を語ってくれた。第3の砦を目指すうちに彼の涙が紙面に垂れて語は盡きてしまったのである。
嗚呼!やはりそうであったのか、頷きながら兵の拳を堅く握りしめて私は彼の苦闘を讃え、1日も早き全治を心に祈ったのである。

 あの長江渡河の前々夜予め工面して集めた酒を、弟を交え多くの戦友と共に飲み乾した。その夜は許可を得て弟と褥を共にすることが出来たのが最後であったのである。部隊の裏手に小高い丘があった。これに登って遥か南衡陽の地に向って弟の冥福を祈り続けることがそれからの私の朝の日課となった。

 あの広大な中国大陸、北と南に別れて軍務にある兄弟2人が異郷の地漢口で邂逅した喜びを当時早速「軍事郵便」に托して郷里の祖母に送ったのだが
『御祖母上様 写真一枚御覧に入れます 2人とも元気で居ります 篤佑もその後愈々 大元気で活躍して居る事でせう 武運長久を祈ってやって戴きませう 暑気烈しき折から祖母上様並びに新宅のオバアサンお体を大切にお過ごしの程祈り上げます。6月15日』

 戦争は終わった。私はその翌年6月復員した。母はすでに私の出征中他界した。病床にあった祖母は待ちに待った私の帰りを見届けて僅か1ヵ月にして病没した。祖母の残した手箱の中からこの郵便が出て来たのである。軍装して並んだ2人の写真もそのまま貼ってあった。
 今尚大切に保管している。
一体、誰がこの出会いを仕掛けたのであろうか、神佛のなせる技としか考えられない。

 戦争は限りない苦しみと悲しみの中で人を支配する。そして多くの家庭を崩壊する。

 とかく薄れ行く戦争への記憶と戦争の非を私たちは忘れてはならない。永く後世へ伝えるべき大切な事である。ことさらに遺族の一員というのではなく、国民総ての訴えである。

 戦争は二度と繰り返してはならない。

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