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更新日:2020年11月25日

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私のシベリヤ (郷部・男性・66歳)

その一 シベリヤに見た生地獄

 私は、昭和18年2月1日、仙台第22部隊に入営、3月中旬、満州間島省に渡り、昭和20年4月6日、通河での匪賊討伐に約一ヵ月参戦、8月依蘭で降伏。
 私が、ソ連で捕虜生活を体験してから、40余年の歳月が過ぎたが、どうしても記憶から消し去ることのできないきわめて苛酷な体験を語りたいと思う。

 戦争が終われば、捕虜は速やかに祖国へ送還されるとばかり思いこんでいたが、それがいつの間にか、船に乗せられ、松花江から黒龍江に入り、11月3日朝6時頃「サニーキ」という山の中の寒村に横着けされた。「今日は明治節だなあ」と故郷を思い出しながら下船。道路に中国風の饅頭が落ちている。よく見ると馬糞だ。寒さと、空腹のために饅頭に見えたのだ。

 2日ぐらい歩き続け、夕方になって湖が見えてきた。300メートルほど先に松の丸太を並べた柵で囲まれた収容所があり、丸太で造った兵舎が10棟ほど建っていた。ソ連語でいう「ラーゲリ」であった。周囲は低い山と森に囲まれた「グッシニー」というところで湖は「キジ湖」だという。人が住むような場所ではない。ここで伐採に従事することをいい渡された。
 朝5時、星のまたたく真暗な空に、レールを切って吊り下げた鐘が、カーンカーンと鳴る。すると誰ともなく松の木の「ヒデ」に火をつける。水がないから洗面などしない。便所に行き、食事をする。昼食用のパン袋と、ソーセージの空缶と飯盒と腰に下げ、防寒外套を着て、「ピーラ」と「タポール」即ち鋸と鉈を持ち、営門の前に整列。
 外は35度以下の寒さ。5キロちかく歩き、現場に到着する。夜は完全に明けて8時頃である。直ちに、二名一組になって、作業開始である。30センチも積もっている根本の雪をシャベルで除き、根本から10センチほどのところで切り倒す。午前中、3本ぐらい伐採すると、昼食である。火をかきわけて真赤にし、空缶または飯盒に雪を入れ、凍ってカチカチになっている茸を入れ、塩を入れて、それを飲みながらパンを食べる。
 食事が終り、一服となると、ヒマワリの葉や茎をオガクズのようにしたものを、タバコがわりに吸う。一般労働者のタバコである。
 一時、作業再開。午後も同じ作業である。同じ方向に倒して長さをそろえる。夕方、ソ連兵の男・女が来て、物差しで計って検収し、白樺の板に(紙の代り)鉛筆で二人組のノルマ(作業量)を記録して行く。
 作業終りの頃はもう薄暗い。作業中、1メートルに切っておいた薪を背負って、重い足をひきずり、暗い道を食べものの話、内地の話をしながら、収容所に帰る。営門に入るとピーラとタポールを集め、炊事用と暖房用の薪を降し、故郷の夢を見る宿舎に早々に入る。

 グシニーのラーゲリに収容された580名のわが部隊は、約1年8ヵ月の間に、90余名という死亡者を出した。そのうちの70余名は、ここに着いて4ヵ月の間に亡くなった。犠牲者が初期に集中した原因は次のとおりである。
 この70余名は、逃亡をはかって射殺された者1名のほかは、約3分の1がチフス。3分の2が栄養失調死であった。着のみ着のままの捕虜は着替える衣服もなく、洗濯する水もなく、チフス風が発生しても退治するすべもなかった。医者はソ連のチャーピーロ軍医中尉と日本軍医が2名で医務室を開いていたが、医薬品が無く、大隊長も死んだ。
 労働がきわめてきつい。着いたとき収容所長が「作業を早く終わらせれば、2年で帰す」といった。一日も早く帰りたいために、体力の限界を超えて働いたのが栄養失調の原因だと思う。

 仕事がつらく、なかには仮病をつかう者も少なくない。しかし、体に傷、腫れもの、凍傷、痔など、外から見えるものでなければ認めない。仕事のつらさに、自分の指を鉈で切り落とす者もいた。自分の服の程度が悪いと、戦友の死ぬのを待って取り替えてしまう。
 死者は捕虜もソ連の医者も、全裸のまま、豚小舎に5人10人と積んでおく。時おり、柵の外から地方人の飼っている豚が、裸の死体を食べる。豚の口にくわえられる部分、足、指、耳、鼻、局部をくわえてふりまわす。これは正に生地獄だ。春になると軽症の病人たちで死体を戸外に埋める。冬は表土が80センチも凍るので冷凍して置き、5月、6月に掘り出して埋葬する。この悲惨な事実を証言する為に、後の時代に残るよう、戦友の一人ひとりを瞼に焼き付けて、語り伝えなくてはならないと思う。

その二 シベリヤの体験

栄養失調

 私も捕虜になって半年ぐらい、上官も兵隊と同じように何につけても、してはならないと言うことで、食う物も飲む物も我慢していた。それが栄養失調のもとであった。
 栄養失調になると、目が見えなくなり、熱が出て「しり」の穴が見える。又、歩けないのだ。私も栄養失調になり、宿舎の二段ベットの上で寝ていた。だんだん病気は重くなり、夢ばかり見るようになった。

 外は雪でマイナス35.6度の寒さだ。そんな時、兵隊が雪を飯盒につめて、「ペチカ」(長方形の鉄のストーブ)の上にのせた。雪は飯盒から、こぼれ鉄の上で「シューシュー」となった。このシューシューの音が、寝ている私の耳に聞こえたのは、油で上げているあの「ドウナツ」の音に聞こえたのである。兵隊はこの音を聞いてなぐさめていたようだ。
 私は目がぼんやりし、体が動かない。今は食べることと帰りたい事だけでした。「なんでおれにドウナツをくれないんだ。」とみんなを困らせたこともあった。外の兵隊も「もう今晩だけかも知れない。」と言っていたそうだ。うわごとで、「弟が迎えに来たり、真白い大型のバスが毎日、毎日、みんなを迎えに来たと言っても、私だけを連れて帰らなかった。それに乗って帰りたかった。又、そのバスで乾燥芋を「カマス俵」にいっぱい持って来てくれて、手紙も母がよこした。」と言っていた。
 そのころは食べたい、帰りたいと思い、生か死かをさまよっていたのだろうと、今だにこれだけは、頭から忘れられない。このような状態の時、衛生兵が、「今晩ぐらいか」と言って注射を射ってくれたこと、自分では、みんな頭では、わかっていたが、口があまりきけなかった。その内一日一日良くなり、戦友が今の食パンで1センチ角ぐらいに切り、白砂糖をかけて「白パンだ。」と言って、口の中に入れてくれたのも今だに忘れられない。
 体がよくなり作業に出られるようになってからは、生きるために口に入れる物は、なんでも食った。馬小屋に行き馬のえさ大麦、魚や馬のはらわた、豚の頭、ねずみ、とかげ、へび、タンポポ、ハコベ、アカザなんでも食べて丈夫になり、もとの体になった。

降伏の日

 昭和20年8月18日、午前8時20分頃、場所は依蘭県牡丹江の近くで降伏した川の土手の下には、中隊長以下と開拓団の老人夫婦と男女と子供5、60名近く頭に「必勝」と染めぬき、日の丸の着いた鉢巻をした人達が、我々と同じ戦いを前に生きこらして集まっていた。
 突然「パン、パン。」と音がしたと思うと「ピューピュー。」と弾の音が、我々の頭の上を通り抜ける。その時、本部の将校が島で1メートル四方の白い旗をふりながら「武器を置いて、直ちに降伏しろ。」と、どなって走っていった。その時、自分はいつでも機関銃の弾が出るようにおしてつ(引きがね)に指をかまえていた。何秒かたったか、前方200メートルぐらいの所より、ソ連兵が「カモフラージュ」の上衣を身につけ、「マンドリン」72発入りの自動小銃を前にかかえて、我々の前に一列になり、銃を空に向けて射ち、こっちへ近づいて来ました。
 この時ばかりは、ああ、ここで自分は死ぬのかと思った。急に故郷を思い出し、親や兄弟の事も思い出した。たとえ、戦っても自分だけは死ぬまい。死にたくないと思った。人間は誰でもこう思うのが本当の気持ちだとつくづく思い、今日まで生きてきた。あの時戦っていたら、我々も開拓団の人達も全員、あの世に消えていただろう。この数分後に、丸腰(武装していない)の降伏をした。

 我々は一列になってソ連兵に川の岸に連れていかれた。するとソ連兵が一列に並んだ兵隊に向い「バンザイ」と言った。それは、降伏の状態で手を上にあげさせられ、体をさすり何か危険なものを持っていないか調べた。その時、手を上げたとたんに、一番先に時計が目に入り、全員、ほとんどの兵隊は取られた。「時計、財布、タバコ、ケース、千人針、日の丸の旗」目についたものは、何でも取った。
 昼近くなった頃、土手の下で次の行き先を待っていると、日光の暑さで水を飲みたくなる。汗は出るし、我慢ができず、前を見るとくぼんだところに水たまりがあり、「豚」や「アヒル」が泳いでいた。その水を「ハンカチ」でこして飲んだ。人間は本当に水が飲みたい時は何も感ぜず、生きるためには病気とか、きたないとか考えることなく行動した。

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