私が酒々井青年学校に勤務していた昭和15年1学期半ば頃、満蒙開拓女子指導員に推薦され、この秋、現地視察に行くようにと、校長先生より伝達されました。余りの大任であり辞退いたしましたが、当時成田小学校の大野先生から再度勧められ、その命を受けることにしました。
8月、茨城県内原で研修を終了し、9月、諸準備を整え、10月1日、木の香も新しい満蒙開拓館に集まり拓務省職員の引率のもと、満蒙開拓女子指導員の腕章をつけ、全国2班に分かれ新潟港を出航いたしました。二昼夜を日本海に過ごし、3日目の朝、しらじらと明ける彼方に、北鮮羅新の赤土の裸山が見えてきました。その間から白い手拭をかぶった人がちらほらする姿を珍しく感じました。
翌日、図門駅で身体、荷物の検査を受け、北満へ向かいました。夜間は、汽車の窓に黒布のカーテンがひかれ、車輛の前後に警備兵が一人ずつ銃を持って立っていました。どこをみても果てしなく広がる原野、何時間乗っても人家も見えず、ただ汽車が走るだけでした。内原で予備知識は得たものの驚くばかりでした。チチハルの手前の龍瓜開拓団へ下車し、一面波、ラッ法、大日向村からハルピンへ(各地1から3日滞在)更に、新京、奉天、大連、旅順の視察をいたしました。
10月23日、関係の方々に見送られ、大連港より帰途に着きました。いつもは荒い玄界灘も穏やかで、やがて白壁の家々、松の緑の美しい祖国門司港に安着、市役所で今後の努力を誓い合って解散いたしました。この3ヶ月の訓練視察の中で特に胸にしみていることを記します。
修了式も近い8月下旬、新潟部隊が渡満するとのこと、作業を中止して内原駅に向かいました。駅には、臨時列車が入り、すでに生徒は乗車していました。カーキ色の服をまといゲートルに身を固め戦闘帽をきりりとかぶった姿で静まりかえった車内は皆の心が一つにまとまっていると強く感じられました。それは内原訓練所で鍛えられた見るからに力強くこれから満蒙の血に大和魂を植えつけ骨を埋める決意の表れでした。黙禱の号令に一同両手を組み、目を閉じた表情に感動を覚えました。
やがて「海ゆかばー」の歌声がひびきわたると、日焼けしたほおに、幾すじか涙の流れる生徒のおりました。又、同郷から入所したが日輪兵舎(内原独特の建物)で渡満を待たずして永眠した友人の遺影と遺骨を抱く姿もありました。汽車は動き出しました。「万才、万才」のお祭りさわぎではなく厳粛な光景でした。
このうら若い青年達(中3)が3年後には、立派な開拓民として成功することを祈って遠く消えていく列車を瞼を熱くして見送りました。40有余年過ぎた今も、あの力強い歌声、りりしい姿がはっきりと眼前に浮かび胸迫るものを感じます。
広い原野に数軒、草ぶきの屋根、窓は少なく壁ばかりが目立ちました。気候は内地の12月に相当し、草は霜枯れ、立木もなく殺風景でした。雨が降ると道は泥泥、寒さは募り外に出ると身体の芯まで冷え痛くさえ感じました。鼻汁が凍ることも想像できました。食事は、コーリャン、お菜は人参の油いため、菜汁が毎回のように出ました。壁土の上にアンペラをしきオンドルで暖をとりました。夜は電燈もなく不自由でした。
この開拓団で久住大室出身の谷平君と出合い、思いもよらず語り合い林口駅で見送ってくれたことも感動いたしました。
今を去ること約50年 国策として紅顔の青年、うら若い女子青年を渡満させたが国情一転し、大望の夢は破れ、人命財産を失い無残な結果に終わらせたこと、今、来日しても肉親にめぐり合えぬまま帰国する残留孤児の皆さんの心情を察しペンをおきます。
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