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更新日:2020年11月25日

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試験により祖国に帰る「ソ連抑留の一断片」 (飯岡・男性・64歳)

 私のソ連抑留の最後のラーゲルは昭和24年8月頃で、特殊な混成集団の収容所であった。入所して幾日も過ぎない或る日、突然ソ連政治部員の指示により筆記試験をすることで教室に入った。同法達受験者は真剣そのもので、緊張しきった雰囲気であったことを40年後の今でも忘れることはできない。

 やがて、アキチーブ・思想教育指導者から試験用紙が渡された。出題は、抑留中各ラーゲルで学習してきたマルクス・レーニン主義、エンゲルス、唯物論、ソ連共産党史等の理解力をためすもので、文章的なものは「ソ連の第一次革命の失敗」「トロキストの存在」「ボリシイビエキの闘い」「農民と労働者の日和見主義」等、この他に共産主義社会における専門思想用語など百問であったと思う。私は、わかる問題から記入し、さほどむずかしいとは思わなかった。一応全部を回答し、再点検して補足した。
所要時間は4時間位だったと思うが、武装解除の際に腕時計、万年筆等を取り上げられ、時間の経過がわからなかったことが腹立たしかった。試験用紙がアキチーブによって集められた後、試験合格者は誓約書に署名することになる。その署名した契約書を代表がハバロスクから飛行機でクレムリンに持参し帰国となることが告げられ、試験が終わった。

 外に出て、私より古年兵らしい2、3の年配者と話し合っているうち、入隊前あるいは軍隊で警察官、憲兵、特務機関員等の職域にあったものを対象にしていることがわかった。何回かの試験に落ち、いまだに在所中の者も多数いるとの事であったが、私自身なぜこのような人達と一緒にされたか疑問が解けず、どうなることかと不安な気持であった。やがて夜となり、8時か9時と思える頃呼び出しを受けて連れられて行ってみると、6畳間位の個室で机を前にソ連将校の大尉が真中の椅子に座り、両脇に銃を構えた兵士が立っている。瞬間、取り調べであると思った。深く礼をした。

 やがて将校は日本語で姓名を聞いた。私は自分の姓名を答えた。将校との問答は今でもはっきり覚えている。机上に広げた満州国の地図を指し、「あなたはこの部隊にいたでしょう。」「はい、私は3月中旬北孫呉の306部隊に現役兵として入隊し、6月下旬ハルピンの新設部隊に一個小隊の転属兵として加えられました。その後、ソ連の参戦により関東軍司令部に転勤命令を受け、私たちの小隊は8月15日未明に新京駅に到着しましたが司令部との合流はできず、他部隊に編入させてもらって公主嶺まで行って武装解除を受けました。」
 「よくわかりました。今日の試験はできましたか。」
 「はい、一応答えは全部書きました。カザフ共和国のラーゲルでは3年間炭坑の仕事の余暇に共産主義の本をたくさん持ち学習しました。昨年ナホトカに集結後、他地区の集団に分散し編成がえされ、冬は伐採・夏はソホーズや煉瓦工場などの仕事に短期間ずつ移動して働きましたので書物は所持しませんが、夜間あるいは休憩中にアキチーブを中心に毎日討論会をしてきましたので大体できたと思います。」
 「あなたの歩いてきたところはどこですか。」(地図をひろげて)
 「はい、カザフ共和国は3年いましたから大体わかりますが、ナホトカ以後の地区はいずれも短期間でしたので全く地名はわかりません。」
 「あなたは、天皇の軍隊でソ連のどんな情報をとりましたか。」
 「私は306部隊で3ヶ月位でしたので、モールス信号を覚えただけで情報はとれませんでした。」
 「そんなことはないでしょう。」
 「いや、本当です。情報をとるどころか通信機の使用すら全く訓練を受けませんでした。」
 「嘘をつくとシベリヤ送りになりますよ、それでもいいですか。」
 「はい。本当に嘘ではありません。」
将校は疑問視しながらも帰りなさいというので、深く礼をして引き揚げた。

 翌日、試験結果の発表により私は合格し、待ちに待ったダモイが決まったが、喜びながらも本当に帰れるかどうか心配であった。今一つ署名という関門があった。署名所に行くと驚いたことには豚の毛で作った筆で誓約書に署名するのであった。誓約書前段の文章は忘れたが要旨は「社会主義の城塞ソビエト連邦に協力し、帰国後は日本共産党に入党し帝国主義と闘争する」というような趣旨の長文が綴られていた。私は15番目位のところに署名したが、そのときの光景は今でも瞼に浮ぶ。

 そしてナホトカ港から昭和24年9月23日祖国の土を踏んだが、抑留中、カザフ共和国での3年の生活は食糧事情もよく給料の支給もあって、売店や外出によるバザールでの物資購入の自由もあったのに比べ、最後の越冬1年間は寒さと飢えによる栄養失調との戦いで、九死に一生を得た。また、帰国を目前に冬期伐採作業の山小屋で、火事のため一夜にして焼死した16名の同胞に合掌して冥福を祈り、ソ連抑留の一断片ではあるが筆をとめる。

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