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更新日:2020年11月25日

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父母の苦労に思う (中台・女性・40歳)

 私はいま、母と800キロも遠く離れて暮らしているが、ついさきごろ、一緒に住んでいたときに、触れずに過ごした40年以上も前のことを、母は思い出したように語ってくれた。
 47年も昔では当たり前のことかもしれないが、父と母の結婚は、親の意向に沿ったものだった。

 父は「大連」で日本人、現地人がそれぞれ2000名あまりが働く会社に勤めていた。昭和15年、母は結婚のため、一人、日の丸の旗を手に大連に渡った。新婚生活は社宅の一戸建てからスタートし、16年に長女、19年に次女と2人の子供に恵まれ平凡ながら幸せな生活だった。

 昭和20年6月、父は召集された。
 出征の前に写したという、その写真の父母は若く美しい。父は優しい表情をしている。母もそうだ。どうして、こんな穏やかな顔ができたのだろうか。だが、その胸中は、いかばかりだったか・・・。

 父の出征から、終戦まで、何日あるというのだろう。これが運命というのだろうか。終戦を境に、母子3人の生活は、ガラリと変ってしまった。
 社宅を出ることになった。新しい住まいは、一戸建て三部屋で、三所帯が住むことになった。母子3人に割り当てられたのは、四畳半一間だった。ペチカが燃え、明るい電灯がともり、ガスの生活から、外で木片を拾い集め、七輪で煮たきする生活に変った。
食べ物といえばコウリャン。一晩水に浸し、2時間も煮ないと食べられず、空腹を満たすことはできても、決しておいしいとは思えず、長姉は、コウリャン病という湿疹に悩まされた。

 父の消息は、まったくわからなかった。
 祈祷師のようなおばあさんは、「北枕で寝ている」といい、母は父の死を意識させられながらも、「不思議と、そうは思えなかった」と淡々と話してくれた。
 収入の道が途絶えたのだ。母は、留守家族の仲間5人と、生きてゆくためにはじめたのは、タバコ売りと、洗濯屋だった。「みなで力を合わせて生きていこう。いまにきっと、引き揚げ船が出るんだから」とお互いに助けあい励ましあった。
 洗濯屋というのは、汚れ物を預かってきて洗濯し、アイロンがけして届けるというもので、その洗濯物も乾く間、盗まれないように、見張っていた。いつも次姉を背負っていた母には、アイロンがけ、見張りなどの、割合楽な仕事をまわしてくれた。それでも遠く離れた町に注文取りに出掛けなければならないときは、長姉は、留守番と、ごはん炊きの役目があった。長姉は、まだ5才だった。

 そうやって命をつなぐ日が続いた昭和20年、引き揚げ第一船がでることになった。
 「本当に日本に連れ帰るかどうか不安で、第一船を見送り、第二船を選んで大連を離れたんだよ」と母はいった。
 そのときの母の姿は、父の詰め衿に作業ズボン姿で、肩にリュックをかけ、茶わんや箸の入った風呂敷包みを手に持ち、もう片方の手で長姉の手を引き、背中に次姉をおんぶしていた。
 「どうして父のものなんか着たの」
 「持って帰れるのは、手に持てるだけという制約があったんだよ」といった。もし、父が無事に復員してきたとき、着るものがなかったら困るだろうと、母の働かした知恵だったそうだ。

 引き揚げ船の貨物船の中は、たべものや、眠ることが保証され、落ち着いた様子だった。
 「内地に帰れると思い安心したのか、風邪を引いて、とっても具合が悪くて、配給の食事を受け取りに行くのも苦しかった」と母は少し笑い声でいったが、そのときのことを思い出したように、力ない笑いに聞こえた。

 佐世保に上陸した。
 リュックを受け取りにいったら、口が開いていた。「もしや」と思ったら、やはり、たった一枚の大島が盗まれていた。人の心も殺伐としていたのだろう。
 そこで一週間を過ごし郷里へ。また陸路の旅がはじまった。
 落ち着き先を実家と決め、7年振りに、生家に戻ると、姉夫婦一家が餅を焼いて食べていた。
 「それをみたら涙がとめどなく流れ出て仕方がなかったよ」といった。
 「よく帰ってこれたな」と喜んでくれたすぐあと、「電報で無事を知らせてくれたら、もっと早く喜べたのに」と叱られた。しかし、母は「内地は空襲でひどいというし、実家も焼けてしまっているかもしれない。そうすれば電報代が無駄になる」と思った。父の消息もまだわからない。母子三人で、これから生きていかなければならないことを考えると、2円の電報代も惜しかった。やっと、心の安まるところに戻ったときは昭和22年1月の末だった。

 今の私より若かった母が、2人の子供を連れて、外地から引き揚げてきたのだ。ときの流れが母の苦しさを風化させている部分もあろうし、思い出すのさえいやな部分もあるだろう。
 「本当に大変な思いをしたんだねえ」と、ため息まじりに、その苦労を思いやっていると「内地は、もっと大変だったろうよ。空襲はあったろうし、食料不足も深刻だったらしいから」といったので、少し意外な気持になっていると「でも、本当に大変だったのは、それからの生活の方だったんだよ」と言葉を続けた。

 父も無事であった。昭和22年4月、引き揚げ船で舞鶴港についた父は「家族が無事であれば生家にいるであろう」と訪ねてきた。ちょうどそのとき庭にいた母は、人の気配を感じ、ひょいと顔をあげた。すると、そこには、ボロボロの作業服を着た、汚ない姿の父が立っていた。
 「あんら父ちゃん、よく帰ったごど。まず無事でよがった。」ぐらい、いっただろうと母は笑った。「テレビのように感激的な対面じゃなかったの」と、念を押すように聞いてみたが「なかったな」と言った。それだけ母は気丈だったのだろうか。

 母の知らない事実が、一つあった。
 「あのね、母ちゃん。父ちゃんが復員してきて、母ちゃんの生家の近くまできたら、姉ちゃんが遊んでいるのがみえたんだって。でも父ちゃんは、すぐ家に入っていけなかったんだって。なぜかっていうと、もし、母ちゃんが再婚していたら、父ちゃんが帰ってきたことで、今の幸せを壊すことになると思ったんだって。だからなんども家の前をいったりきたりして、やっとの思いで家に足を踏み入れたんだってよ」
 「ヘエッ。そんなこと、はじめて聞いた」と母はいった。父は無口であった。思いやっても口にする人ではなかった。母にさえもいわなかった父の気持を、私が聞いたのは、父の亡くなった後だった。そしてその人は「あんたの親父さんからその話を聞いたとき、いかにも大連の父さんらしいと思った」といった。
 父も帰ってきて、4人がみな揃った。職場も決まり本当の新しいスタートを切ったのは昭和22年9月だった。

 戦争がなかったら、多くの人に人生が、どんなに違ったものであったろうにと思う。
 いつのことだったか忘れるほど以前、母が「2人の子供を無事連れ帰ったことで、親の役目を果たせたと思った」とポツリともらしたことがあった。

 何度目かの中国残留孤児の来日調査のときだった。一人の孤児が「マーマ」と涙声で呼びかける場面を見ながら、母のいった言葉の重さを知り、「肉親の方と会えますように」と心から祈る私だった。
 いまだに続く調査に、「どれほどの人がつらい思いをしたのだろうか」と、他人ごとと思えず、肉親捜しの成りゆきが、つい気になってくる。

 戦争という特殊な時代の中で、父と母だけが特別の苦しみやつらさを味わったのではないかもしれない。しかし、そこを生き抜いた父母があってこそ、私が生を受けたことを考えると、やはり感謝したい気持でいっぱいになる。そして私の知らない時代を父母と歩んでくれた2人の姉にも、心より「ありがとう」と感謝のことばを伝えたい。

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