昭和18年12月1日、東部12部隊に学徒兵として入隊(東京世田ヶ谷近衛野砲)した我々に、「朝は早よから起こされて、雑布がけやら掃き掃除、いやな上等兵にいじめられ、泣く泣く送る日の長さ」と初年兵哀歌よろしくの軍隊生活が始まった。
辛い内務班での20余日、内地に別れを告げて北支えん州へと転属。楓部隊にて寒風零下30度の中、乗馬に火砲操作にきびしい訓練に明け暮れし、再び河南省帰徳へ転属となった。ここで春を迎え火砲祭をすませ、騎砲第4連隊の河南作戦の壮途を見送って、久留米第一陸軍予備士官学校入校のため同地を後に再び内地の土地を踏む。
陸軍伍長として入校、晴れの将校生徒としての教育が始まった。この間学生気分もすっかり抜けて皇軍兵士として逞しく育ったが、重大なる戦局は待ったなしで、教育途中にして教官や懐かしい故国とも別れをつげ、昭和19年9月18日門司を出港し、船団はマニラへと向かう最大の難所バシー海峡で深夜「一番船津山丸」雷撃で沈没。
我が乗船の「長山丸」にも魚雷命中せるも不発、生死に紙一重の危機を幾度か通りぬけて、どうにか目的地マニラに10月13日入港した。下船埠頭で山下大将巡視に遭遇後、直にアルベルト小学校仮泊所到着。ここで空襲で退避し10月22日タスマニヤ丸に乗船出航し、闇の中パラワン島沖で栗田艦隊と出合う。これが連合艦隊の見納めであった。
11月3日シンガポールに入港南兵站宿舎入り、ブキテマ高地戦跡見学し、14日再度乗船、「泰東丸」にてシンガポール出港。今度は小船ゆえ敵潜に狙われる公算少なしと自らなぐさめる。17日タンジョンプリオク入港、汽車にて中部ジャワスマランに向う途中車窓の風景すべて珍しく原地人の言葉さっぱりわからず。18日スマラン到着、軍用トラックにてサラチイガ教育隊へ夜到着、泣く子も黙る通称サラチイガ気違い教育が始まり、区隊付に「お前らこんな教育部隊でやったら兵隊に殺されるぞ。」と驚かされ、アアー前途多難と厳しい訓練に励んだ。
その間戦局は刻々悪化。制空海権とも敵の手に移りつつあったが我々候補生はくわしい情報知る由もなく、比島すでに陥ち、沖縄本島へと敵の攻撃目標はジャワを素通りしていった。
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