• くらし・手続き
  • 子育て・教育
  • 健康・福祉
  • 文化・スポーツ
  • 産業・ビジネス
  • まちづくり・環境
  • 安全・安心
  • 市政情報

現在地:

更新日:2020年11月25日

印刷する

学徒兵われら、思い出のあれこれ (橋賀台・男性・68歳)

一、入隊より南方軍転属まで

 昭和18年12月1日、東部12部隊に学徒兵として入隊(東京世田ヶ谷近衛野砲)した我々に、「朝は早よから起こされて、雑布がけやら掃き掃除、いやな上等兵にいじめられ、泣く泣く送る日の長さ」と初年兵哀歌よろしくの軍隊生活が始まった。
辛い内務班での20余日、内地に別れを告げて北支えん州へと転属。楓部隊にて寒風零下30度の中、乗馬に火砲操作にきびしい訓練に明け暮れし、再び河南省帰徳へ転属となった。ここで春を迎え火砲祭をすませ、騎砲第4連隊の河南作戦の壮途を見送って、久留米第一陸軍予備士官学校入校のため同地を後に再び内地の土地を踏む。

 陸軍伍長として入校、晴れの将校生徒としての教育が始まった。この間学生気分もすっかり抜けて皇軍兵士として逞しく育ったが、重大なる戦局は待ったなしで、教育途中にして教官や懐かしい故国とも別れをつげ、昭和19年9月18日門司を出港し、船団はマニラへと向かう最大の難所バシー海峡で深夜「一番船津山丸」雷撃で沈没。
我が乗船の「長山丸」にも魚雷命中せるも不発、生死に紙一重の危機を幾度か通りぬけて、どうにか目的地マニラに10月13日入港した。下船埠頭で山下大将巡視に遭遇後、直にアルベルト小学校仮泊所到着。ここで空襲で退避し10月22日タスマニヤ丸に乗船出航し、闇の中パラワン島沖で栗田艦隊と出合う。これが連合艦隊の見納めであった。
11月3日シンガポールに入港南兵站宿舎入り、ブキテマ高地戦跡見学し、14日再度乗船、「泰東丸」にてシンガポール出港。今度は小船ゆえ敵潜に狙われる公算少なしと自らなぐさめる。17日タンジョンプリオク入港、汽車にて中部ジャワスマランに向う途中車窓の風景すべて珍しく原地人の言葉さっぱりわからず。18日スマラン到着、軍用トラックにてサラチイガ教育隊へ夜到着、泣く子も黙る通称サラチイガ気違い教育が始まり、区隊付に「お前らこんな教育部隊でやったら兵隊に殺されるぞ。」と驚かされ、アアー前途多難と厳しい訓練に励んだ。
 その間戦局は刻々悪化。制空海権とも敵の手に移りつつあったが我々候補生はくわしい情報知る由もなく、比島すでに陥ち、沖縄本島へと敵の攻撃目標はジャワを素通りしていった。

二、終戦から作業隊へ

 戦況は我々に利あらずして遂に終戦となり、チマヒに新設されたばかりの第16軍特設砲兵連隊井上大佐指揮は速やかに解散することになった。直ちにインドネシア兵補の兵器を回収し、衣料食糧軍票等を支給して各人故郷へと除隊させて、重要書類兵器の終戦処理に連日多忙を極めた。この間の軍暦は現役満期任陸軍砲兵少尉予備役に編入、引き続き臨時召集の勤務であった。兵器の回収は後の独立戦争において重要なポイントとなったのであり、日本軍移動とともに各地でインドネシア独立軍と暴徒との交戦があり、陸海軍人邦人にも多数の犠牲者を出すに至ったが、西部地区においては馬淵旅団長の指導処置宜しきを得て、終始インドネシアに対し厳正なる態度で臨むことができたのである。
 やがて英米蘭軍上陸、独立戦は一層燃え上がりジャワ全島にムルデガ(独立)の声が満ち溢れたが、依然として完全装備のジャワ派遣軍は「英米蘭」「インドネシア」両軍の脅威であった。しかし連合軍に兵器を引渡し、武装解除と共にジャカルタ、スラバヤ等に作業隊が編成され、作業に従事した。この間連合軍により、不本意ながらインドネシアとの交戦もあった。

三、帰還復員(22年3月23日、24才)

 故郷を出てより4年余、夢にまで見た帰還だ。バタビヤより復員船「攝津丸」にて一路故国宇品めざし、4月2日入港、思えば長い苦しい「旅」であった。赤道をまた越す船はとうとう故国宇品に到着した。「上陸だ。」歩く足に力が入る。もはや遮る何物もない。あの幾度か生死の間をさまよった過ぎし辛い思い出は悪夢ではなかったろうか。そうだ、我は生きていたのだ。そして今こそ生きることの喜びを味わうことができた。

おわりに

 回想すれば、アジアの解放を信じ夢みて、何の邪心もなく純粋な気持ちで異民族の若者と相携えて目的に生命をかけたあのことが一体何であったのか、何の価値を持っていたのかと思い悩みますが、結果としてアジアの国々が独立し、また祖国日本が今日の繁栄を見ることができたのは、多くの犠牲と我々戦中派が流した血と汗と涙の代償ではなかったかと思います。我々の心情は我々でなければわからないのですが、「亀の甲より年の甲」、人生長く生きている体験者の一人としての思いをこめて、これからを生きる方々の一助となれば幸甚です。

関連リンク

 「今だからこそ 私たちの戦争体験記 成田市」の次のページを読む方は下のリンクをクリックしてください。
このページに関するお問い合わせ先

シティプロモーション部 文化国際課

所在地:〒286-8585 千葉県成田市花崎町760番地(市役所行政棟4階)

電話番号:0476-20-1534

ファクス番号:0476-22-4494

メールアドレス:bunkoku@city.narita.chiba.jp