• くらし・手続き
  • 子育て・教育
  • 健康・福祉
  • 文化・スポーツ
  • 産業・ビジネス
  • まちづくり・環境
  • 安全・安心
  • 市政情報

現在地:

更新日:2020年11月25日

印刷する

白塔鎮附近の戦闘 (宝田・男性・70歳)

 私は支那事変が始まった昭和12年12月1日、近衛歩兵第四聨隊に現役兵として入営、皇居並に大宮御所の守衛の任務に従事し、2年後の昭和14年12月に支那駐屯歩兵第3聨隊第6中隊に転属北支冀中地区の警備並に討議そして治安維持の任にあたった。
 しかし部隊は高度分散配置のため非常に警備が手薄で共産ゲリラ部隊は日毎に勢力を増し活発な行動をとる様になり、予断を許さない毎日だった。久住少尉以下25名に機関銃一ヶ分隊が配属され、中隊本部より南へ約5粁の景和鎮附近の部落に駐屯し、附近の警備討伐の任にあたる事になった。

 当時私は専任分隊長だった。わすれもしない、昭和15年6月15日、白塔鎮附近に八路軍ゲリラ部隊侵入の情報を入手した久住小隊長は駐屯地に5名の警備兵を残し、軽機関銃分隊と擲弾筒分隊の20名と配属機関銃分隊5名の計25名をもって討伐に向かった。
 ところが、敵は我が方の数十倍の兵力で我が方の行動を察知し、小部隊と見て包囲態勢を整え、歓声を上げながら集中射撃を浴びせて来た。小隊は苦戦に陥り、数時間の死闘を繰返したが戦況はおもわしくなく、包囲されて全員全滅とあって小隊長は一ヶ部隊と共に約300米後方の既設壕まで後退し、包囲網から脱出した形となったが、前面に残された機関銃一ヶ部隊の5名と私の分隊10名に集中攻撃を加えてきた。

 我が方は、横に長い壕に右に機関銃分隊、左に私の分隊が一線に散開して敵と相対したが、敵は多勢をたのみに一歩一歩近づいてくる。
 その時、後方の小隊の位置まで後退する様、手まねしているのが見えた。私は敵弾をさけながら機関銃分隊長のそばに行き、自分の分隊の軽機関銃と小銃をもって後退の援護射撃をするから、其の間に重機関銃を分解搬送で小隊の位置まで後退するよう指示したが、機関銃分隊長はこんなに敵が接近していては、とても後退する事が出来ないとことわられた。私は分隊の兵をこのままでは、全滅するととっさに小隊の位置まで後退することを決意した。分隊の兵を一名ずつ後退させ、分隊全員が後退したのを見とどけ、私も小隊の位置まで後退し、つぎの行動にそなえた。
 その間、敵弾は容赦なく飛来したが幸い負傷者は無かった。そのころから日が暮れ始め、いまにも雨が振りだしそうな空模様になり、そうこうしている内に暗夜となり、敵多勢の前にはどうすることもできず、戦場を離脱し、駐屯地に戻り、ただちに中隊本部に戦況を報告した。
 中隊は大隊本部に報告した当時、大隊本部は南趙扶にあり、守下大隊長殿はこの報を受け翌16日の払暁を期し、大隊主力をもって白塔鎮に攻撃をかけたが敵はすでに姿なく、附近の情報を入手しながら大隊本部に帰還した。
 この戦斗で機関銃分隊長市川伍長以下4名の犠牲者を出した事は本当に遺憾のきわみである。もしあの時機関銃分隊が先に後退していたら、私の分隊10名は全滅していた事でしょう。

 あれから48年の歳月が過ぎたがあの時の死闘は私の脳裏から消え去る事はない。
 寝食を共にした市川伍長以下4名の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく、今なお中国大陸に眠っている尊い犠牲こそ今の日本の礎であると思う。

 どうかやすらかに御冥福をお祈りする。

関連リンク

 「今だからこそ 私たちの戦争体験記 成田市」の次のページを読む方は下のリンクをクリックしてください。
このページに関するお問い合わせ先

シティプロモーション部 文化国際課

所在地:〒286-8585 千葉県成田市花崎町760番地(市役所行政棟4階)

電話番号:0476-20-1534

ファクス番号:0476-22-4494

メールアドレス:bunkoku@city.narita.chiba.jp