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更新日:2020年11月24日

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東京大空襲から (中台・男性・61歳)

 夏の風物詩としての夜空の花火は、叙情をかきたてる。夜の闇に華麗に花開く花火は美しく、はかなく豪華に消える。
 近年、花火大会が逝く夏を惜しむごとく8月の夜空を彩どる花火を見ていると、私は40年前の東京大空襲の焼夷が蘇って重なってくる。

 私は学校の寄宿舎に入っていた。学徒動員令で学業は半ばでも戦地に赴く。寄宿舎の周りは早稲田の学生が多いのか、毎夜のように、早稲田の校歌を聞いた。宴の終りに校歌を歌う別れの会であった。互いの友情の声であった。そして一人ずつ学生たちは、戦地に出て行った歌声を聞きつつ甘い感傷に浸った。送る人も殆どない出征姿であり、次の日は自分も。淡々とした風景でそれが戦時下であり、日本人として当然であった頃。
 東京はいつ空襲があってもよいように、燈下管制はしかれ防火訓練も行われた。学校の音楽の時間に和音の訓練である。ドミソ・シレソなど和音の違いを聞き分ける。B29の飛行爆音を聞き分ける訓練との事。
 服装は、白は目立つからなるべく黒っぽい色にするようにと注意された。黒いモノトーンに沈んだ東京は戦争末期である。
 そして、昭和20年3月10日の東京大空襲。長い長い夜だった。空襲解除になって防空壕を出た。東の空は真っ赤に燃えていた。下町一帯が焼けた、東京の三分の一が焼けたとか。その夜から毎晩の様に空襲が続いた。その度に起こされて防空壕に入るのはつらい。睡眠不足。食糧不足。昼間は軍需工場に動員されていた。私は川崎の電波兵器の会社に通っていた。国文科の学生が電波兵器の工員である。疲労極に達して何も考えることも出来ない。疲れだけである。

 5月25日、東京を殆ど灰にした空襲が始まった。焼夷弾が落ちた。あたり一帯がさっと明るくなる。そしてドーンという音と共に花火のように散った。花火の一つの火がまたふくらみ、砕けて花開く。連続の花火は、いくつにもさくれつして火の玉となって落ちてくる。立って夜空を眺めている私の頭に何発落ちるだろう。美しい風景であり、恐ろしい風景である。火の手はあちこちに広がる。気がついたら、寮にも火の手があがったが、私たちの手に負えない。先生は「もう仕方ない逃げましょう」と云った。私たちは、火のない方に逃げたが行く先々をふさがれて逃げられず、遂に貯水槽についた。一教室ほどの広さの空き地に溜められた池である。池の周りにうずくまった。体をできるだけ地につけて顔を焼かないように手で掩った。
 火事の風はすごい。そして火は流れる。水の上も走る。全身水を浴びて、体の上を火の粉が流れても衣服に火が付かないように服を濡らす。家を焼く火のほてりで服はすぐ乾く。「熱い!熱い!」と叫ぶと消防団の人が「ようし!」と水をかけてくれた。
 周りの家が全部焼け落ちた頃、夜が明けた。一晩にして東京は焼野原に変わった。建っている家はない。どこまでも見渡せた。くすぶる煙の地平線から太陽が昇る。焼けたトタン、焼けた土、荒涼とした東京はすべて活動が止まった。死の静けさの朝であった。電車・車・電話・人間の作った文化はすべて焼き尽くしたのである。鳥も虫も街路樹も。貯えてあった食糧も。貴重な書籍はうず高い灰となって何日もくすぶっていた。もっとも気の毒だったのは、老いた教授が、30年間の研究論文を焼いて気が狂ってしまい、紙を見ると拾い集めていた姿が眼に浮ぶ。

 戦争の災禍は数限りない。しかしこの戦争を生きてきた生命力、培われた気力が戦後の日本を復興させたのかもしれない。

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