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更新日:2020年11月24日

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夕焼空は悲しみの色 (橋賀台・女性・52歳)

 それは昭和20年7月9日のことでした。眠っていた私が、騒々しい雰囲気に目を覚ましたのは、大家さんの防空壕の中で、いつの間にか近所の人達が皆集まっていたのでした。
 その夜は警戒警報が一旦解除になり、直後に突然、空襲警報が発令されて、危ういというので家のより大きい大家さんの防空壕に入れてもらったのでした。母が側に来て、「B29が爆撃していて大変なの」と青ざめた顔で云いました。
 当時私は、国民学校4年生で、仙台ごうらぎ通りに住んでいました。外のただならぬ気配に、怖い物見たさで防空壕から出た私は、一瞬息が止まる程の衝撃でその場にしゃがみ込んでしまいました。周囲は昼間のように明かるく、真赤な空から得体の知れない燃えかすがどんどん降って来て、恐ろしい物音が響き渡る中を、前の道路は、避難してきた大勢の人でいっぱいでした。浴衣姿で頭に座布団をのせた裸足の女の人、大荷物を担いだ男、赤ちゃんを背負い、子供の手を引いた母親、いろんな人が道路にひしめいて、薬師堂の方へと歩いて行くのでした。

 一夜明けた仙台は、駅前も市の中心部も一面の焼野原と化し、広瀬川の河原も火に追われて、死んだ人で埋まったという話でした。
 学校に行くと、澤田先生が町内の防火作業中に、焼夷弾の直撃を受けて亡くなられたという噂が、朝礼前に全校に広まっていました。昨年の学芸会にも踊りを教えて頂いた大好きな先生でしたから、校長先生のお話の時は、皆と一緒に泣いてしまいました。
 学校から帰ると、母が荷造りをしていました。田舎に親類も知人もない私達は、大家さんの知人の家に疎開することになったのです。ぐずぐずしていたら、今夜にも又空襲があって、今度こそ家を焼かれるかもしれないのでした。

 当時のわが家は、職業軍人の父が、日米開戦の半年も前から外地に行っている留守家族で、専門学校に通っていた長兄は、人手不足の農村へ勤労動員で泊まり込み、旧制中学4年の次兄と母と私の3人が家にいました。
 母と兄は、家に残らなければならないので、私は大家さんのおばあさんと、その家の5人の子供達と共に仙台市から少し離れた、茂庭の生出村の加藤さんの家に行く事になりました。昼頃、荷馬車が来て家の荷物を運んで行くとすぐ、私達も出発しました。
 電車もバスも不通なので歩いて行くのです。大家さんたちの女学生のフミ子さんが、自転車に幼いマモちゃんを乗せて押して行くことになり、私は着替えを入れたリュックを背負い、モンペ姿に下駄ばきでした。
 歩いて行く途中、町はずれの田圃の中に昨夜B29が落とした焼夷弾が不発のまま、突き刺さるように落ちているのを何本も見ました。始め元気だった子供達は歩き疲れて、次第に口数も減り黙って歩いて行きました。村落の要所要所にはにわか造りの救護所が立ち、憚災者のために炊き出しなどをしているのでした。テントの前を通る私達一行を見て、小母さんがオニギリを持って出て来ました。すると、大家さんのおばあさんが、「私達は焼け出されて来たのではないから頂く訳には行きません」と云いました。本当は、皆とても腹ペコでしたが、誰一人不平も言わず欲しがりもせず、ひたすら歩きに歩いて、太陽が山に沈み夕闇が迫る頃、やっと加藤さんの家に着きました。加藤さん一家は、疲れ切った私達を暖かく迎えてくれ、それから約一か月間親切にお世話をして下さいました。

 私が訪ねてきた母と、一時帰宅して間もなく天皇陛下の玉音放送がありました。当時の私にはその内容がよく理解出来ませんでしたが、一緒に聞いていた母の頬に伝わる涙を見た時、これはただごとではないと感じました。その日8月15日、戦争は終わり、日本は敗けたのでした。
 事の重大さはともかく、その夜から灯火管制が解除され、明かるい部屋で安心して眠れるのは、私にとっては大きな喜びでした。

 外地からの引き揚げが始まり、私は父の帰りを一日千秋の思いで待ちました。でも、父は帰って来ませんでした。実は、終戦の五ヶ月も前に激戦地レイテで、父は戦死を遂げたのでしたが、その事を私達が知ったのは、終戦後一年近くも経ってからのことでした。その後の私達一家の苦労は、原稿用紙の少い行間に、とても書き盡せるものではありません。

 あれから40年、日本国民は長い平和に馴れ、食糧難も耐乏生活も、物が豊富な現代では過去のことと忘れ去られ、戦争を知らない世代が多くなりつつあります。
 目に見えない怪物の力で、家族が引き離されるような世の中が二度と来ないようにと祈りながら、この年令になっても時としてサイレンの音に怯え、燃えるような夕焼け空を見る時、美しさに感動するより先に、あの大空襲の夜の空の色を思い出す私なのです。

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