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更新日:2020年11月24日

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戦争を知らない私の戦後 (中台・女性・36歳)

 戦争中私の父は、中国大陸の前線にいた。
 10代の終わりごろ、私は「人間の條件」(五味川純平)を読んでいた。決して読書好きではなかった私が、友達が読んでいたのをきっかけに、全巻読み終えたところだった。本の内容は、「アンネの日記」以来の驚きであった。しかもドイツという離れた他国のできごととは違い、日本人の主人公と一緒に日本人の起こした戦争について考えることができたのだった。
 そして私は、身近にいる父の戦争体験を聞きたくなった。父が軍隊の中将であったことは、子どものころ聞いていた。父の毛布は、薄茶色のあっちこっちすり切れたもので、父が軍隊にいた時使用していたものだった。父は、物も不足していた時代もあってか、戦後十数年の間、金属製の箸と共に大切に使用していた。子どもの私には、父が軍隊にいたことに誇りを持ち、それらの物を大切にしているように思えた。
父は古ぼけたアルバムを開いて、軍服を着てキリリとした若いころの写真を見せてくれた。昭和19年に母と結婚した時の写真も、むろん軍服であった。父達の部隊の中国での働きは、「大東亜戦史」(富士書苑)の本の中にも書かれてあるという。

 私は、一番気になっていることを父に尋ねた。「おとうさんも、人を殺したの?」と。
 父は酒も入っていたが、「部下がその前に何人もやられていたから、何でもなかった。白菜を切るようにやった。」と悠然と答えた。私は静かに父の話に聞き入っていたが、カーッと熱くなり体中の血が渦を巻いて、私を飲み込んでしまうのではないかと思った。
 その日以来、私は自分を「人殺しの子どもと変わらない」と思った。父は刑務所にこそ入らなかったが、人を殺している。とても恐しく、私が生きていることさえ罪のように思った。私は、殺された中国人達のために冥福を祈った。子どもはいなかっただろうか、奥さんはいなかっただろうか、母親はどんなにか悲しんだことだろうかと。その後5年ほど経って、従兄弟が、「おじさんも、終戦がもうちょっと遅ければ、軍隊で昇進していたんだってね。惜しかったなあ。」とくったくなく話すと、「イヤあ、そうなっていたら靖国ゆきだ。」と父は言った。
 そして私に双子の男の子達が生まれた時、父は感無量で、「生きていてよかった。」と涙した。

 それから、私の二人の兄達が出生後まもなく死んだ時、母の母から「『中国人をたくさん殺したからだ』と言われて辛かった。」と話してくれた。
 数年前父は、戦友仲間と戦争体験の本を出版した。私にはまだその本も、父たちの部隊の書かれている本も、読む勇気がないままでいる。

 今の父は、あのりりしい軍服姿の面影はなく、孫たちを前にして好好爺であるが、時を経ても父の戦争へのざんげと私の心の痛みは、消えることはないだろう。

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