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更新日:2020年11月24日

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腹だたしく感じた職業野球 (橋賀台・男性・70歳)

 戦後42年、戦争を経験した多くの人が亡くなり、あるいは寝たきりとなっています。日本はこの昭和の天皇の下に、戦争を折目として、明治維新を上廻る大きな変化を経験しました。私はふとしたきっかけで、この時代を勉強する機会を得ましたので、いささか所感を述べて見たいと思います。戦争がどうして起ったかも知らないで、ただ反対を叫んで、青春のはけ口の遊びとしている若者が余りにも多いからです。

 一握りの将軍たちの野望の下に、無計画に起され、空しく潰え去ったインパール攻略を頂点とするビルマ作戦は、今次大戦の中でも軍の恥部といわれる酷しい敗戦でした。死亡率62%という戦死者は、あの殻倉地帯の国にありながら、殆んど敵弾でなく、餓死によるものでした。
 そんな戦いのあと、一年半の捕虜生活を経て、公式では最後の復員船といわれる空母葛城の格納庫を三段にきった蚕棚のような船倉で、復員官から懇々と聞かされた言葉を今でも忘れません。
「皆さん外地におられた人は、自分たちだけがひどい目に逢ったと思われるでしょうが、内地でもせまい土地で食糧難、食うに米なくもっとひどい目にあっています。すべての金属は供出され、耕す鍬もない中で、あらゆる土地は、公園も学校も寸土といえども耕やされ、じっと飢餓に耐えて来たのです。そして外地にある皆さんの為にと供出を続けてきました。これから内地に残った人たちのことを良く理解して、一刻も早い祖国復興に努力してもらいたいのです。」
復員官の切々たる言葉は今も耳の奥深く残っています。

 上陸して東京へ、そして各自の故郷へ、車中一人に一品ずつということで、私も最後の贈物として軍靴と靴下をもらいました。その靴下の中に一杯に詰めた乾めんぼうを故郷へのお土産として、船中で復員官に言われた通り、居眠りして盗られないように、あみ棚からロープで手首にしばりつけ、窓から左右の焼けあとを眺めつつ復員しました。
 それから後、復帰した国鉄で、稲沢の操車場の近くに宿舎をもらいました。そして私共は、線路の側溝、車止の後にある一寸した空地すべて水の引ける所には水稲を作りました。肥料は無いので、人糞を肥樋に入れ、リヤカーや、やっと手に入れた担い棒で二人掛りで運びました。獲れた僅かばかりのもみ殻を一升びんに入れ、棒でつついて脱穀したものです。僅かに飢えをしのいだに過ぎなかったが、それなりに、感謝の日を過したものでした。
 そんな或る日、ふと新聞を見ました。広い球場で、大の大人たちがのんびり野球をする写真と、それを見物する大勢の人々つまり職業野球のはじまりでした。私はこれを見て、はらわたが煮えくり返る想いでした。今でも私はテレビの野球番組も、スポーツ新聞も見ません。それは慣わしというより、身に沁みついてしまったもののように思えます。

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