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更新日:2020年11月24日

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我が戦時記 (幸町・男性・71歳)

その一 従軍

 昭和20年7月も末頃、沖縄は全滅状態になってしまった。関釜連絡船も米潜艦に撃沈され大陸の連絡は絶たれてしまった。
 私達SB船のみ舞鶴より釜山に物資を輸送して又大陸より物資を運んだ。其の間、私は、初年兵教育をしていたが、SB船も重油タンクに海水がはいるようになり、ドック入りすることになってしまった。
 又此のころからB29の若狭湾から日本海へ出る水道を機雷封鎖をはじめた。B29による連夜の機雷の投下である。私たちのSB船は船底が浅く出来ているので浅瀬に乗り上げるようにして機雷攻撃をかわした。しかし間もなく命令が出て湾中央部の浮きに繋留することになった。同時にB29の機雷攻撃も止まった。

 7月31日早朝西部軍艦区指令より「米国太平洋艦隊航空母艦二を含む機動部隊舞鶴を攻撃する目的をもって急接近中なり厳戒を要す」と報ぜられた。ただちに舞鶴港全体に空襲警報のサイレン鳴りわたり、私達SB船高射砲分隊員、並びに高射機関砲3聯装22聯装2軍装8全員砲側につく。

 私たち高射砲分隊は、弾薬庫より30発程砲側にあげ分隊長と話合った。「相手はボードシコルスキー艦上戦斗機だろうから、小型爆弾急降下攻撃と機銃掃射砲弾の信管は零秒に切る。」ときまり準備完了、米機の来襲を待つのみ。
 分隊長とSB船にむかってくる米機の早期発見指示を打ち合わせて紅に染まっている東方の空下に黒々とアルプス連山の山脈を見る。舞鶴港全体寂としてしづまりかえっている。入港している艦は病院船氷川丸をのぞくと約10隻余りではなかったかと思う。

 かすかに東方山脈方向より爆音が聞こえはじめてきた。照準眼鏡をのぞくと、山脈上、横形に銀灰をまいたように紅の空を背景にぎらぎらさせながら敵機が接近してくる。空母2隻だから波状攻撃でなければ、80機以上は来ると思った。良く見ると、先導機はグラマンのようだ。機影はぐんぐん大きくなる。私の体全体から緊張の極冷たい汗がにじむ。此の一戦で今迄の人生も終りかなとも思った。だが一方ではなにやられてたまるか思わずも御不動様の御加護を念じた。
 不運なことに大きな夏雲が切れぎれではあるが舞鶴港上空を覆ってきた。たちまち米機は雲の上に進入。弾薬はすでに装塡してある。「射撃開始命令。」発せられる。対空砲火が一斉に火を吐いた。曳光弾の火柱だ。

 米機も雲間から姿を出してきた。急降下と共に機銃掃射だ。機銃弾がうなりを発して通過。先頭機に狙いをつけた。自船のマスト中央部に米機がいる。発射すれば、零秒信管だから自爆してしまう。マストからそれるのを待つ。米機もさるもの、昇せず降下を続ける。海面すれすれまで降下して来るので、射撃出来ず。僚艦が、近距離にいて米機上昇発射した。瞬間、閃光を放って米機は消えてしまった。猛烈な風圧がくる。
 すでに海上は、爆弾の炸裂する煙り、命中により炎上する油の煙りがいっぱいだ。そのなかで炸裂する爆弾の閃光。発射する高射機関砲の発射閃光が目が入るだけで、米機がいずこにいるやらわからない。

 上空を見回すと米機一機、私達のSB船後方200米位のところにいる陸軍輸送船SS船を狙って急降下。爆弾はすでに機から放たれてSS船に向っている。正確に命中弾だとわかる。速く気付けば予防できたかも知れぬのに残念だ。米機は急返轉して去ってしまう。
 爆弾は不幸にも煙突に命中し、船腹から猛烈に火炎噴出し、鉄板は大きく裂けて海水進入。たちまち船は横倒れ状態で沈みはじめる。此の米機が去って全部退去したようだ。黒煙は汐風に流されて、行き跡には真二つに割れ、沈没するSS艦。遠方に在る氷川丸と私達のSB船のみ無事だった。とにかくSS船の救助に、内火艇カッターを送る。砲員は次期に備え砲側に残り、皆の帰りを待つ。SS船には、満州行きの士官候補生、約500人が乗船していたのだそうだが、「ほとんど全滅状態だった。」と報告された。

 舞鶴港は此の空襲で潰滅した。その後間もなく本土決戦が叫けばれだした。SB船からも高射機関砲数門が、島根県のある山頂に運び出されて行った。やがて数日後、広島の原爆。つづいて長崎と投下され、そして15日の玉音放送砲員関係員は武装解除と共に復員になった。考えてみれば、昭和13年関東軍駄兵第25聯隊機関銃隊に入営し、以来北支那方面軍令下にはいり、黄河作戦、又中支那放免軍令下に入り、南京を経て武漢三鎭を越え大別山山脈を約一週間寝づの強行軍哀東会戦で一個中隊全滅して多くの戦友を亡くした。ノモンハン参戦に急遽北支那まで引返し、協定が結ばれて後一時帰国。

 大東亜戦で海上機動輸送隊SB船高射砲員となり、其の間兵隊一般人等の戦にもる死亡数知れず、私自身も何度か危地を乗越へて現在に致っている。

 文筆に才能があれば、現実に近い状態を表現して、戦争の悲惨さをお伝えし、戦争は絶対にすべきではないと申しあげたい一念であります。

その二 従軍被災

 昭和20年3月13日、大阪市がサイパン島より襲来のB29爆撃機の大編隊に、爆撃され全市全焼壊滅した日である。この日、私たち海上機動輸送隊SB特殊輸送船隊員は、沖縄戦益々不利、軍需物資の海上輸送も、制海空権を米軍に握られているなかで輸送するのですから、SB船もことごとく沈められ、私たちの戦友も多く亡くなった。
 しかし、沖縄全島軍民全力あげて戦っている時、私達SB船乗組員にも、船舶司令部より特攻輸送の命令が発せられたのだ。輸送するSB船が出来ていない。そこで櫛ケ浜秘密基地より大阪造船所に出向し、一日も早くSB船を完成させるため工員の応援に行くことになり、宿舎は港区第一小学校にきまり、ここから毎日、応援作業に造船所に通っていた時のことである。
この日も造船所より帰り、夕食の休憩をしていたとき、夕暗の空に不気味な空襲警報のサイレンが、全市一斉に鳴りわたり、一瞬にして燈火官制がしかれ全市暗黒街と化す。私たち砲兵隊員も装具を着けて校庭内の防空壕に入る。壕の上部、私の頭の上に拳大の息抜き穴が梁の両わきに開いている。絶好の観測所だ。
間もなく轟音を轟かせてB29の大編隊が大阪湾方向より進入、翼灯により一機、二機、三機、後続機数不明、一番機が大阪市の半周を過ぎたころ、一番機から小さな火が一つスーと落ちる。落下途中で「バアーン。」と破裂し花火のように無数の小火が散り落ちていくと同時に、後続機も一斉に落としはじめる。たちまち無数の火の手があがる。機銃掃射もはじめたようだ。見る見るうちに猛烈な火勢になった。炎に映しだされたB29は、悪魔の火鳥のように見えた。

 突然覗いていた穴から火が吹いてきた。思わず目をつぶり、手ではらいのけた。目を開くと私は火炎の輪の中に立っていた。全員に「このままだと焼け死ぬ、外に出ろ。」と押し出す。外に全員無事出終る。壕の出口で一人倒れている。焼夷弾の直撃をうけ即死。校舎に入る。窓ガラスが破れて熱風と煙で息がつけない。タオルをマスクにして校舎を出る。猛烈な火炎と熱風だ。強風に火炎が波のようにうねり、ときに渦をまき、100米以上ものびて燃え移って行く。火勢の激しさにすくんでいる数名の隊員に「私についてこい。」と言って、火炎の中を走り、くぐり抜け暗い方向に又走った。広い道路に出て走り続けると広い三叉路に出た。向いに川があり、又片方にはコンクリート作りの建物がある。

 建物の後方には不燃性の小屋があり、地方人が数人避難している。私が行く途中の一人が私に「兵隊さん、大変な火傷している。薬をやる。」と言われたが断わり、向い側を見ると、川の上流に大きなガスタンクが二基あり、炎に包まれている。危険、皆に「伏せるよう。」と言うと同時に大爆発、周囲の燃えている家屋を吹き飛ばして、爆風がこちらへも吹きつけてきたが皆無事、激しいところは過ぎたようだ。すでにB29は飛び去っていない。夜が白々と明けてきた。私は造船所に帰るため道路上に出ると、前日まで家屋が、軒をつらねてならんでいたのだが、僅かな炭や灰となり、火炎熱風に燃え飛ばされた。

 凹凸も少ない炭の間に、人間かどうかわからぬ程に焼けた死体が無数に倒れている。静かな風に変っている。異臭が鼻をつく。造船所はと見廻すと何事もなかった様子である。急いで炭灰をふみ死体をよけて造船所に着く。

 SB船は何事もなかったようでドックの中にいる戦友たちが、一斉に出迎えてくれ、喜んで抱えるようにして船室に入れてくれた。昨夜からの疲労と火傷からの熱で気を失った。気がつくと、日赤病院分室のベットの上だった。

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