私は72才になる老人です。
長い年月の間には楽しかった事、苦しかった事が沢山あります。今でもはっきりと頭の中に浮んで来る事は大東亜戦争中に苦労した事です。
戦時中は兵庫県の石川島播磨造船所に勤務していました。当時設計部門は造船部(船体を造る部門)と造機部(船内外の機器の制作据付け配管)に別れて居て、私は第4造機設計で配管設計をして居ました。
昭和15年頃から油を運ぶタンカーが海を安全に走る為に、機雷等の危険物を除く掃海艇等の建造修理が次第に増加してきました。日曜日返上、残業、徹夜の回数も多くなり、徹夜しても翌日は帰宅出来ず仕事を続けました。徹夜した翌日図面を書いていると、いつしか「コックリ」をして、はっと又図面を書き始めるような状態でした。
昭和18年頃になると、敵機の来襲も激しくなり(丁度其の頃新婚で通勤時間が歩いて40分位の所にある一戸建ての社宅に住んでいました。)家の方も心配でした。しかし街の方には被害はなく、会社の方のみ狙われ、機銃掃射や爆弾攻撃に見舞われました。死者は出ませんでしたが負傷者が続出しました。ついに家内を九州の田舎に避難させました。
食事は少しばかりの米と大豆の絞り糟、小麦粉、それに山を開墾して作ったサツマ芋と茎を乾燥して粉にしたものを交ぜ合わせ、団子にして食べて居ました。これが主食でした。現在の若い人達に信じて貰えますでしょうか。
これらの苦労と忍耐で若い頃を過したからこそ戦後のどんな苦労も苦にならず過してこられたものと思います。
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