陸軍少年飛行兵といえば、当時は「予科練」とともに、英雄視もされ、憧れの的だった。
昭和19年4月。
宇都宮師団の庭は、紅白の幔幕で囲むかのように満開の桜が埋めていた。ひらひらと散る花びらは、あたかも当時の戦争のなりゆきを案じしているかのようだ。
県下からつどったのは、数え15の若者達である。その頃の戦況は、初戦のはなばなしさと異なり、レイテ島撤退、7月には「アッツ島玉砕」と暗黙が立ち込めた頃だった。師団の前庭につどった若者を前に「今日からお前たちのいのちは俺が預かった。天皇陛下のため、国のため、死ぬ覚悟ができているのか。」と、大きな軍刀を下げた将校が威丈高に、志願合格者の浮いた気分に活を入れるように絶叫した。
国鉄宇都宮駅から列車に乗る。
生まれて初めての「東京行」に、うきうきした気持だった。「小山、赤羽、上野、秋葉原」。乗り換えの秋葉原駅の高架ホームに「ホオッ」と思わず驚きの声を出した。
中央線立川駅下車。
駅前から西へ伸びる広い砂利道を、2列に並んで、足を高くあげて歩いた。
いま思うと砂川辺りか?「村山陸軍少年飛行兵学校」と、ものものしく大書きされた看板が、レンガの門にかかっていた。
全員講堂に入り、ひとりひとり名前を紹介された。終わるとこまごました注意があり、毛布を渡された。板の床に毛布で寝たが、まんじりともできない一夜だった。
思えば、父を昭和16年8月に病で亡くし、兄は昭和18年に応召、母と妹2人をほおり出しての志願なのである。家は貧しく、母の細腕ひとつがたよりなのだ。そんな母をかえりみず、予科練の純白な制服に憧れた身勝手を、当時はだれも責めなかったのだ。
赤い血潮の予科練の・・・の歌が四六時中町に流れ、「欲しがりません勝つまでは」の標語がやたらペタペタと貼りだされ、いたいけな少年の心 は、いや応なく参戦の流れに押し流された。
なにもいわない母が心の底では悲痛なうめきをあげていたのを今なら良くわかる。
翌朝は日本晴。カネのお椀にカネの箸の食事。ふだんお粥腹のわが身には、結構なご馳走だった。
再度の身体検査。「お前の耳がおかしい。」「ううん、中耳炎を患ったからな。」、「おまえの胸にかげがある。」1メートル50の少年をいたぶるように情け容赦のない言葉がつづいた。夕刻には5、6名が「不合格、ただちに帰ってよろしい。」、涙がとめどなく流れた。
わが大君に召されたる、命はえある朝ぼらけ・・・のバンドに送られ、胸をはって「行きます。」とあいさつしたのが昨日の朝なのだ。
いまさら・・・とつぶやきつつ、帰るに帰れない心境だった。
いま、43年前をふりかえってみて、あれで良かったとつくづく思う。
「人生はドラマチックなほうがいい―俵万智。」わが人生のドラマの幕があのとき切って落とされたのだった。
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