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更新日:2020年11月24日

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六ヵ月の予科練生活 (飯仲・男性・59歳)

学徒動員

 年令16歳で三重航空隊奈良分遣隊へ大東亜戦争最後の6月に入隊。
兵舎は天理市の天理教の建物でした。終戦も間近な頃で、飛行機は練習機もなく、正に翼なき予科練でした。
 毎日、爆弾を抱いての対戦車突入の訓練と、防空壕作りの連続でした。入隊後は、呼び名も「貴様と俺」。階段は2段ずつ飛び上がり飛び降り、歩行は速足、何事も敏速に、自分の事は自分で。
 わが班は72分隊第6班、班長以下40名。何事も負けるることは許されず、一人の反則でも「連帯責任」で、罰則が待っています。
 まず班長の精神棒(約90センチの樫の棒)で、倒れるほどになぐられます。また、「歯をくいしばれ!半歩開け!」の号令で、頬をちからいっぱい叩かれ、よろめくと、反対側からの往復ビンタです。「前列廻れ右!」で、対面しての叩き合い、少しでも手心を加えると「だめだ!班長が手本を示す」と、またなぐられます。
 ある日、2階の廊下から水が洩ってきたので「何だろう?」と見に行ってきた者の話だと、3名がなぐられて気絶し、頭から水をかけられていたとのことでした。このようにすべてが「絶対服従」です。

 その後、兵庫県の姫路航空隊に移りました。今度は板の間の本物の兵舎です。甲板そうじの一例ですが、まず全員が一列に並び、班長の号令で、雑布を手に30メートルほどの板の間を、数回往復するのです。疲れが見えてくると、今度は競争です。
 1回目は先着10名が1回で休み。それを2回、3回とくり返して、最後に残りますと、動けなくなるまでくり返されます。こんなことから「負けじ魂」が育成されていったともいえるかも知れません。
 入隊後、役に立ったことの一つは、手旗信号を覚えたことでした。はじめは大変でした。夜も勉強、毎日が夢中でした。何しろ月月火水木金金の連続で、日曜はありません。

毎日の食事

 唄の文句に「金の茶碗に金の箸」の句がありますが、すべてアルミの食器で、それも年期の入ったベコベコの器に一膳飯です。食後の満腹感などありません。明日の食事が待ち遠しい毎日でした。
 自分の部落も、当時は約30戸でしたが、数名の戦死者が出ました。その方々の墓前に参ると目頭が熱くなります。
 全員整列して、終戦の詔勅をラジオで聴きました。全然、意味がわからぬまま、屋根のない貨車に乗せられ、芋を洗うような混雑に耐えて、復員しました。復員後、きびしい食糧難の時代が続きました。私は山林50アールほどを開墾するという作業を続けましたが、さほど苦もなりませんでした。それは軍隊での苦労に耐えぬいた経験が生かされたからだと思います。
 二度と戦争のない平和が続きますよう祈ります。

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