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更新日:2020年11月24日

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応徴士時代の思い出 (北須賀・男性・82歳)

 応徴士という名を得て、日本鋼管川崎製鋼所へ勤務することになったのは、太平洋戦争の真っ只中、昭和18年12月半ば過ぎ、厳寒の頃であった。その当時、日本鋼管と言うと、「金と命の交換会社」などと言われて嫌われていた。
 事実、熔鉱炉などでは作業中に一酸化炭素が発生して、何の前兆もなく生命を奪われることがしばしばだったと聞かされていた。

 入所すると先ず1か月の訓練期間。凍てついた露天の急造洗面所で顔を洗い、殺風景な食堂で朝食となる。大豆が大部分と思えるような半搗米。しかもこれすら初期のこと。事情は日を追って窮乏の一路を辿り、コーリャン豆粕へと落ち込んで行くことになるのだ。
 指導員というのが又始末が悪い。殆んど例外なく理非を考慮せず、粗暴にして強制的だった。野戦帰りだからか気が荒いなどとうそぶいていた。よく駆け足をやらされた。
 このいわゆる訓練期間一か月を経て、言うなれば適材適所ということだろう。各々現場へ配属された。寮も藤崎寮から南町の13号館に移り、現場は商品課積出係という所だった。

 川崎で先ず驚いたのが、太陽が黄にぼやけて輝きがないこと。煤煙がやたらにとんできて、衣類も身体も汚れてしまうこともあった。その頃はどこの家庭でも、戦力の一翼を担い得るものならばと、鍋釜、鉄びん、火鉢などの鉄製品を、時には現在使用しているものであっても惜しむことなく供出した。
 ところがだ!。それら家庭の必需品は会社の空地に山積されていた。しかもそこで適当な品と思えば従業員たちが持ち帰ったりしていた。

 夏の夕暮れともなると、地域は限られていたが、蝙蝠の大群があたり真っ黒になる程飛び交っていた。
竿があればいくらでも叩き落せる有様だった。川崎では「なく蚊が先」という所だからと、人は言ったのだが、「蚊喰鳥」という異名がある蝙蝠の大群をはびこらせている蚊の大群が如何に凄まじいものか?。凡その見当はつくと思う。とにかく、一種素晴らしい美観ではあった。

 現場は日増しに仕事がなくなっていった。共栄圏として期待した南方からの物資は全部途中で撃沈されてしまうからだ。
 昭和20年ともなると、鬼畜米英撃滅という戦意昂揚の威勢のいい言葉から、一億火の玉となって玉砕という悲壮な言葉に変わり、警戒警報発令から、空襲警報発令が引っきりなし、灯火管制も厳しく、寛いで読書など、到底望むべくもなかった。
 常に爆撃機B29、艦載機B52党の空襲に日夜脅かされ続けていた。
 そして我らにとっての運命の時、4月10日の夜を迎えることになるのだ。

 「シュルシュル、シュルシュル。」と焼夷弾が落とされた。「今夜は川崎だそうですから。」と、寮長の言葉があった。一時はバケツなど持ち出して、消火活動にはげんだ。然し、追々そんな生易しいものではなくなった。「自由解放しますから銘々、身の安全を期してください。」という寮長の言葉で安全地帯を目差すことになった。
 小さいトランク一個を防空壕に投げ入れて、防空頭巾代りの掛布団一枚をまとって同僚1名と寮を後にした。すでに何処も火の海。群衆は長蛇の列をなして右往左往している。右しても火、左しても火。迷っていては死を待つばかりだ。「万難を排して六郷を目指そう。」と誓い合って、往く手を阻む猛火を跳び越え蹴散らし、精根限り前進した。
 そして漸にして多摩川堤に辿りつくことが出来た。すさまじい風になっていた。寒さに震えて土手腹に身を丸めていた。頭上の爆音は止むべくもないが直撃さえ食わなければ生命は全うすることが出来よう。ひたすら夜の明けるのを待った。

 遂に夜は明けた。敵機は去った。そして川崎は、いや大森も鎌田もだ!。一瞬千里の焼野原!。ひどい!。悲惨だ。
 勿論寮など跡方もないが、防空壕に投げ込んでおいたトランクだけは無事だった。ちなみに、我等は鋼管第3次応徴士と称し千葉県人で編成された500名だが、爆風に叩きつけられて負傷したなどという2、3名を出したものの全員無事だった。
 そしてとにかく、各々会社へ、従業現場へと足を運んだ。途中、何度も犠牲者を目撃せねばならなかった。或は若人の死骸の枕頭に生き残った老父がしょんぼりうずくまっていたり、婦人と幼児が並んでいたり、その婦人は髪が焼けてまばらに縮み、白い顔には血が滲んでいた。幼児は両手両足を突き上げて踊り出す様な格好をしていた。
 次は馬、いまだ死に切れず虚ろな瞳を開け首をだるそうに動かしていた。そしてそれらの遺骸は随分長い間片付けられず放置されていた。勿論南町寮は焼失したので、以前の藤崎寮から通勤したのだが、毎日目をそむけて往復したのだった。これらは一例で当夜の被爆者は無数に上ったはずだ。

 空襲はその後一層熾烈を極め、最後広島、長崎への原子爆弾の投下が決定的の動機となり、8月15日、無条件降伏の詔勅の結果、かえすがえすもいまわしい戦争の幕は閉じたのだが、我が応徴士としても仕事は放免とはならなかった。あちらへ移りこちらへ変り、最後はベンゾールのドラム空缶処理を一人で担当していたこともあり、その整理に手間取り、解放されて帰宅し得たのは10月の末だった。
 その間家庭にあって5児を抱いて必死の生活を続けた家内には名状し難いかんくをかけたのだが、その糟糠の妻はすでに亡い。

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