先ず、私の略歴から。旧中といっても農学校(現在は広島県立庄原実業高校)であって、国民学校高等科を卒業してから入学する3年制であった。
私の入学は昭和18年、卒業は21年である。今も「庄実21年会」というクラス会があって、昨年は修学旅行会が行われたが、戦争も一番熾烈な時代であって、修学旅行どころか、小学校の頃から卒業の謝恩会すらもなかった。
あの頃の学生服は軍隊と同じカーキ色で、帽子は戦闘帽。鞄は背のう、足にはゲートルを巻いた。しかし、物資は乏しくなる一方、人絹のゲートルはすぐずり落ちて、上級生から食らうビンタの種となった。背のうも人絹だから、穴が開くと母がつくろってくれた。靴は皮靴はなかった。ズックから地下足袋、ついには藁ぞうりとなった。
必須科目の軍事教練は軍隊を退役した教官だった。今思い出しても恐ろしいのひと言である。下級生は木銃だったが、上級生になると、38式の擬銃から軍隊払い下げの本銃だった。本銃は菊の紋章は削ってあった。それにしても少年の学生には38式は重かった。
その軍事教練の締め括りは秋の査閲である。「一つ軍人は・・・。」という軍人勅諭と、後には戦陣訓なるものまでまる暗記しなければならなかった。放課後日暮れの校庭で上級生のビンタをくらいながら大声で暗唱するのである。
本番の日には軍隊から来た将校の査閲官が学生の間を歩きながら、指命して軍人勅諭を大声で唱えさせた。そのほか査閲を受ける教練には、藁人形を突き刺す基本から、実戦さながらの演習もあった。また竹竿の先に模型の敵機をつけて一人が持って歩き、それをいろんな姿勢をして38銃で撃つのである。今考えればナンセンスな訓練であったが、学生は真剣だった。
入学した18年はまだ勢いのよい年だった。初冬の三次盆地で、戦車2台でやってくる本物の軍隊を、郡内の中学生軍が迎え撃つ大演習があった。私のクラスは士官学校の若い将校の卵が指揮をとった。刈り田の中に川へ入って身を隠して待ち伏せ、橋を爆破されて立往生している想定の戦車へ突入した。将校の卵は張り切っていた。サーベルを振りかざして戦車へ飛び乗った。戦車の兵隊も飛び出して来た。
講評ではほめられたが、実際は戦車の砲身が我々へ向けられて空砲が轟くのは恐ろしかった。それでも講評後は戦車の操縦とか、38式よりもずっと小型の99式銃を見せてもらい、学生は若い血潮を躍らせたものである。一つ上の上級生が予科練のまっ白い服を着て帰ったもの18年から19年頃であった。
しかし20年になると、弾の出ない擬銃まで軍隊へ供出して、学校の銃庫は空っぽとなった。もっともその年は広島県高田群の山の中へ飛行場建設で動員され、一般の授業もなくなった。査閲の思い出しかない校庭は芋畠と化した。
そんな20年の7月。郡内の中等学校上級生が集められ、海軍の兵隊によって身体検査と面接を受けた。強制志願である。その時初めて性器を握って検査をされた。私はその日の朝、母が配給の新しいサルマタを出してくれたのをはいていた。人絹のサルマタはゴムでなくヒモだったから、検査が終わってサルマタをはこうとしたら、ヒモがするすると中へ入ってしまってあわてたのを今でも忘れない。
とにかく、一次試験は合格して終戦となったのだが、終戦が遅れていたら・・・と、考えるとゾッとする。
8月6日は何回目かの飛行場建設動員に出発していて、芸備線の井原市駅へ降りたとたん、広島駅の構内で原爆を受けた列車を救援機関車が引いて入って来た。火傷の火ぶくれから黄色い液をたらしながら数名が降りて来て、山奥の学生たちは生々しい戦争を初めて目の前に見たのだった。それでも1週間ばかり働いて帰って見ると、父は同じ飛行場へ動員され、他の消防団の人は広島へ死体片づけに動員されていた。
B29の飛行機雲しか見たことがない山奥の村にも、幼年学校が疎開して来たり、原爆被災者で学校は病院と化したり、短期間ではあったが、いっきに戦争一色となったのである。
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