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更新日:2020年11月24日

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女学生の頃 (本三里塚・女性・58歳)

 夏陽がようやく黄色味を増してきた盆の15日正午、重大放送があるからとラジオの前に集まった隣人たちと共に玉音放送を聞いた。フェーン現象のもたらす異常乾燥の中、大火を経験した谷間の町にようやく小さなバラックが建ちはじめた頃で、私は女学校の3年生であった。

 中央アルプスを東に仰ぎ、木曽川に沿って南北に細長い河岸段丘上の谷間の町は、小説「夜明け前」の舞台でもあった。木曽川と平行して走る国鉄中央西線はその頃、名古屋方面から多くの疎開者を谷間の町に運んで来たし、一方北からは長野、東京方面の疎開者や旅行者を乗せて列車はいつも満員であった。

 女学校のクラスの三分の一程度は疎開の転入生で占められ、その人たちのきれいな言葉や、名の知られた女学校の制服が眩しく映った。その頃の自分達たちの服装と言えば、木綿絣のかるさん(この地方独特のモンペのこと、そのうちに洋式の型紙がはやり女学生スタイルからは姿を消した)に下駄ばき、上衣はヘチマ衿の国民服(全国共通の女学生制服)であった。
 綿の厚い防空頭巾と肩かけ鞄を常に肩から下げていた。それらはすべて手造りで、材料は手織り木綿のこともあったが、何れも母親や祖母の嫁入り衣装であったり、その又先代のお婆さんの形見の品とやらの、いわゆる箪笥のこやしとして保存されて来たものであった。

 記憶を辿ると、小学校二年生の夏、日支事変が始まり、5年生では「紀元2600年」に当るということで、記念奉祝歌が作られ、お祝いの式が全国で行われた。翌昭和16年初冬、大東亜戦争突入で戦時色はますます濃くなっていった。その年に「小学校」が「国民学校」と改称されて私たちは国民学校第1回の卒業生となった。国の教育方針はその頃すでに体力重視の時代となっていて、女学校の入試は体力試験(マラソン・懸垂・肱立伏せ)と口頭試問(南方占領地の産物など)だけが行われた。(別に内申請書というものが女学校宛にあったようであるが、)腎炎を患って進学が一年遅れ、昭和18年に女学校へ入学したが、教科には精神講話、静座、更に農業の時間があって食糧増産のため学校の裏山の傾斜地を開墾して甘藷や、蕎麦を作った。
 校舎の周囲のニセアカシアを伐っての炭焼きは、花盛りの素晴らしい香りを思うと情けなかった。日課の朝礼では、全校そろって昭憲皇太后の御歌を斉唱した。昼食事は必ず「食前の誓い」を唱和し、黙禱を捧げた。

 谷間の南部の村に「芝浦タービン」という軍需工場が疎開して来て、中学生、女学生が学徒動員として工場へ派遣されたのは昭和20年4月からだっただろか(それとも上級生はすでに前年から動員されていたかも知れない。)学校は谷間の中央の町にあったから、北部生は学校でパラシュートの縫製に当り、南部生は芝浦タービンで重工業に従事することとなったが、工場自体は整備途中でまだ製品を出すまでには至っていなかったようだ。
 訓練はハンマー打ちから始まったがたがねの頭にうまく当らず幾度となくたがねを持つ自分の親指の関節を打って血だらけになったものである。その後班編成があって、「ボール盤」「旋盤」などと配属された。私は「けがき」ということで設計図を見て、鉄の鋳物に線を引く仕事であった。
 毎朝夕、工場の正門通過は隊伍を整え「歩調とれ」「頭右」の号令によった。駅まで歩いて20分、汽車で20分の通勤であったが、満員電車のデッキにしがみついて、途中2つのトンネルを抜けるときは煤煙で息がつまり、内壁の闇がうす気味悪かった。工場の昼休み時間は、合唱したり、ゲームをしたり割合のどかであった。というのも谷間の住民たちが疎開者から聞く空襲の悲惨さは、新聞やラジオが報じるニュースと同列の谷間の外の出来ごとであって、戦禍の実感からは程遠かったからであろうか。唯一戦争の音としての記憶は、遥か上空をゆくB29の編隊のにぶい響であった。

 終戦を境に町の様相は一変した。発電所工事に携わっていた中国人労働者が腕時計をいくつもはめて町を闊歩したのも、その頃であった。
 学校で授業が始まったのはいつ頃だったかあまり記憶は定かではない。遊び癖のついた頭に学習意欲の戻ったのは余程経ってからであった。基礎学習をおろそかにして来た報いで、数学、英語は特別辛かった。疎開生が少しづつ減り、昭和22年3月卒業を迎えたとき、今度は学制改革に遭遇した。従来4年生高等女学校であったものが旧制高等女学校4年卒、5年卒、新制高校卒と三段階の卒業生を出すことになり、そのため同窓会名簿上は3つのグループに分かれている。級会は勿論一緒で、かつてもモンペ姿の乙女たちは3年に一度全国から集まり、朗らかに歌い、過ぎし時代と学舎での思い出話に共感し合うのである。

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