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更新日:2020年11月24日

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夫を戦場に送って (日吉倉・女性・69歳)

 私は物資のあまり無い時に嫁入りしました。主人の弟たち2人はつづいて召集令状をうけ出征しました。長男が生まれる頃に主人が四街道の戦車隊へ召集され富士の裾野辺りで訓練を受けたとの事でしたが幾月かで帰って来ました。
 しばらく農事をしていましたが、軍需工場へ就職すれば一か月100円の給料が取れるとのことで船橋の工場へ通勤しました。其の後父母と農事に忙しく働いて居りました。間も無く会社から北海道の炭坑へと転勤となりました。

 そのうちに赤紙の召集令状が来てしまいました。終戦の年です。入隊しても小銃も無かったそうです。民家やお寺等に泊まりながら千葉方面の防空壕掘りをしていたそうです。東京方面の空襲の夜のことです。警報のサイレンに起こされて雨戸を開けると、南西の空が真っ赤に見えました。焼夷弾でしょうか、真っ赤な玉のようなものを幾つもくくりつけたような物が降って来る様子が手に取るように見えました。その時初めて見たのでした。警戒警報が出て、空を見上げると、大きな敵機が悠々と飛び、下で小さな日本の飛行機でしょうか、まるで鳥のように見えました。クル、クル、クル、クル、と廻っていましたがいつしか分かれて飛んで行ってしまいました。酒々井の方に敵機が墜落したとか、七栄の方に畑の中へ爆弾が落ちたとか、噂が毎日のように耳に入りました。泥棒もそちこちでありました。大きな物では牛を夜のうちに山の中へ盗み出して料理した者もおったそうです。米、野菜、さつま芋等、畑の物も随分と盗まれました。
 衣類等は、物々交換で手に入りました。長男の7つの祝には進駐軍の毛布で洋服を作って間に合わせました。皆、それぞれボロボロな服に繕いして着ておりました。闇屋の往来も激しく穀物、野菜等を取り引きしていました。
 お巡りさんの取り締まりがきびしく、捕まれば没収されてしまいました。終戦後間もなく主人も弟二人も南方から帰りました。兄弟姉妹が多かったので家族は12人でした。ご飯も大きな鉄釜で3升も炊いていました。お菜もその通りで大変な苦労の日が続きましたが、皆、必死で耐えて生き抜いてきました。現在の、物の豊かな平和が、夢のように見えます。

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