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更新日:2020年11月24日

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戦争体験 (並木町・女性・63歳)

 当時私は20才だった。父建具職、母、妹、家族四人昭和20年3月9日より10日に掛けて東京都墨田区吾嬬町東にて東京大空襲で被災した。
 当時私は家より5分、大日本油脂株式会社東京工場(花王石鹸)総務課兵籍係勤務で会社の重要人物の召集延期の仕事をしていた。

 石鹸はごく一部でコプラを材料として搾油し、飛行機の油、潤滑油を作っていたので、軍需工場として大きくマークされていた。空襲のサイレンを開き、電燈を消すか消さないうち内に敵機来襲。焼夷弾が落ちる音と共に空が赤くなり、火の手があっちこっちで上った。
父は消防団なので馳けつける。母は佛前に手を合わせる。其の内、家の中が昼間の様に明るくなり、戸を開けると逃げまどう人で道路はごった返していた。もう2、3軒先まで燃えている。
 私たちは荷物を肩に毛布を頭に被る。私はとっさに友のくれた大好きな博多人形を抱え外に出た。人にぶつかり合い、人形を落した。やっとかき分け、拾い上げると首が取れていた。人につき飛ばされ、何人かが身体の上を歩いていった。
起き上がった時は母も妹もいない。私は暑くてたまらず道路にしゃがんだ。目の前で大日本油脂のドラム缶がドカンドカンと火柱を立て、爆発する。其の内誰かが「小松川橋へ逃げろ。」と叫んだ。皆我れ先にと歩いた。其の内「橋が落ちた。」と引き返して来た。

 どの位、どこを歩いたかして小学校の庭についた。大声で呼び合ったり、腰を落としている人、子供の泣き声がして大勢いた。ここは早く焼け落ちたようだ。人に母と妹の無事を聞かされた。すべてもえるものは燃えた。家を探した。食器の一部で確認した。ほてりで暑く目は痛い。顔はすすけ、涙が出た。父そして母と妹も帰って来た。近所の人もポツポツ帰って来た。皆無事を喜び合った。
 水はふき出していた。米屋の焼け跡より焼き米、酒屋より味噌、焼け鍋で汁をつくり、いびり臭いお米を食べた。私の家の壕は良く出来ていたので中に入れた品物だけ残った。壕の中で一夜過ごした。外に出ると夜空は赤く、残り火が風に煽られ、時々火柱となる。皮肉な事に壕はほてりでポカポカ温かく疲れきった私達はまどろんだ。
大火になると風が起こる。焼けない所を見つけるより焼け跡に逃げる。デマが飛ぶ、後日小松川橋を渡った。其の橋は落ちたと聞いた橋だ。体験した尊い教訓だ。
 一週間焼け跡で過した。被災手続き、配給、整理に忙しいが淋しい。他県よりの見舞客のくれた品物など近所の人が分けてくれた。下町の良き人情味の中で、焼けるまで私たち家族は幸せだった。疎開先の住所を書き、近所の人々も別れを惜しみ再開を約して去って行った。まだ放心状態で肉親を探している人もいる。
 亀戸本所は一家全滅が多かった。大日本油脂のそばを流れる川は死んだ人で一杯だ。暑くて川岸に逃げ押されて死んだ人だ。亀戸天神さまの池も人で一杯だったそうだ。4、5日たって兵隊さん達がトラックで来て、川から引き上げ、近くの錦糸公園と原公園に穴を掘り埋めた。身内の確認などしていなかった。私の親友は亀戸で壕の中で死んでいた。

 父は茨城、母は江戸っ子、叔母達2家族合計16名、父の知人を頼りに印旛郡岩戸に疎開した。焼けリヤカーに荷物を積み、惨めな姿だった。印旛沼の渡しを渡る。戦争で被災したなど嘘の様に沼は静かだ。別世界に来たようだ。
 知人の離れを借りた。知人は良くしてくれた。だが食糧に追われた。父は無口になった。電気もなく、夜は空襲になっても目を開けて寝ていればよかった。

 教えてもらって、食べられる物は何でも食べた。百合の球根、山みつば、たんぽぽ、つくし、野びる、あけび、山栗、沼でタツ貝と云う小貝が取れ、農家の人は肥料にし、トウモロコシの根元などに立たせる。私達は大御馳走と云って食べた。
 又近所で豚を殺し、頭だけ呉れた。大きな釜でグラグラ煮て、スープを取る事にした。蓋を開けると恨めしそうな顔が浮ぶ。すぐ向かいの若いお嫁さんが、姑に隠れて芋あめ、野菜、塩のきいた梅干しなど持って来てくれた。親切が泣くほど疎開者はうれしい。時がたつほど、あれもあったら、これもあったらと感じる。
 焼け跡の整理に行く時のおかずは知人の取ってくれた食用鮭の焼いたものだ。秋田の叔父より、するめを仕入れ、新宿の闇市で売った。隣りの握り飯の方がとぶ様にうれた。帰りは必要な品物を買って来る。帰りは闇の中、渡しを降りて土手をよじ登り夢中で歩いた。注文の品物を家族に見せるのがうれしい。今なら外燈がついていてもこわくて歩けないと思う。土地の人は疎開者を「よそ者」と呼ぶ。芋の洞がいたずらされると「よそ者がやった」と云う。私は「こんな田舎は嫌だ。早く東京へ帰りたい。」と思った。
 稲刈りもした。初めて膝まで浸り、一日三食食べてお米一升、母と二人で一週間通った。ご馳走になる白米は甘く、光り輝き思いきりご馳走になった。男たちは再建のため焼け跡に残っていた。叔母達は子供が小さいので縫い物など合間をみては食を得た。母は畠仕事が上手になった。何でも蒔いた。実りはうれしい。

 年がかわり、耳の不自由を感じていたので佐倉陸軍病院へいった。被災の時、通院中でしたが放って置いたので「鼓膜がとけて、もう駄目だよ。」と先生は簡単に言う。岩戸へ帰る道、私は自分に言い聞かせた。「あんなに苦しんで皆死んだんだもの耳位聞けなくともなにさあ…。」と。でも、人間って勝手なもので耳鳴りがなかったら頭がすっきりするだろうなどと思う時もある。
 人の紹介で印旛村農業会に務める事が出来た。現金出納係。途端に農家の人と親しくなる。債権など持って行くとお茶も出してくれる。物交にいっても、もっともっとと要求した要求した農家も…。

 今こうして書いていると岩戸で過ごした歳月の中の出来事は決して忘れられない。苦しいけど楽しくもあり、自然の中で得た喜びは金銭にかえられない。夢中なら何でも出来る。生きる為なら、そして家族の為なら。父も母も叔父、叔母も死んでいない。僅かに岩戸で過ごした従兄弟が東京にいる。

 戦争の空しさは経験した人でなければわからないと思う。あの火の怖さもわからないだろう。私は被災だけだが、死んだ人は一体何だろう。何かの土台になったのだろうか―。と私は思う。

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