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更新日:2020年11月24日

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私の青春期 (本三里塚・女性・58歳)

その1 入植

 世の中が変わったのだと、はっきりそう思ったのは、役人生活を40年もやって来た父の、物を売る姿を見たときからでした。開墾に取り組んで初めての収穫物である甘藷を、貯蔵してある穴倉から運び出し、蔓ごと秤にかけた父が、某かの金を受取った相手は買出しの小母でした。それは入植初期の印象として強く残っています。
 三里塚の戦後は、広大な下総御料牧場用地の開放から始まったと思います。もちろん、戦後入植者の私は戦前のこの土地を知りませんが、御料牧場の放牧場や飼料畑をめぐる桜並木が、慌しく伐り倒され、土手が削られ、草地は掘り起こされて見る見るうちに農地に変貌してゆきました。食糧事情の非常に悪い時期でしたから、甘藷や陸稲、麦を収穫することは、入植者の食卓に大きく影響することでした。

 入植者の団体は大体4グループあったと思います。それは海外からの引揚者団体、戦災に遇った人達、近隣農家の二、三男の家族達、そして、宮内省の退職者達などです。
 入植当初は、牧場の大きな厩が共同住宅で、融資を受けて各自の畑に小さな家が出来るまでは毎日往復3キロの道程を通いながらの耕作でした。開拓地に電気が入ったのは昭和28年頃でしたから、それまでは当然ランプ生活でした。井戸は素人が掘った浅井戸(4メートルくらい)で跳釣瓶で水を汲みましたが真夏の渇水期は大低干上り、遠くの本井戸からの貰い水で凌ぎましたので、風呂をたてる事などとても出来ませんでした。でも戦前の開墾地には「おがみ」という、屋根を直接地面に伏せたような住居があったそうですから、戦後の開拓地はまだ恵まれて居たかも知れません。
 父親達世代はとても勤勉でした。農機具の乏しい時代でちがや(芽)の強い根を切り、掘り起こして農地とする労力は、鍬だけを頼りの肉体そのものとの戦いであったかも知れません。麦の脱穀は足踏式の機械であれば良い方で、「くるり棒」という、在来の器具が大活躍をしました。近隣同士助け合いの共同作業で農繁期を切り抜けました。
 明治10年代から20年代生れの俄百姓の努力が実を結んで、落花生を主とする農業が、次第に定着していきました。
 

その2 おべんとう

 育ち盛りを戦中に過した私の胃袋の記憶は、戦争と言うと先ず「日の丸べんとう」です。梅干が1ケ、白い御飯の真中にあるもので、月に一度か二度、きめられた日に全校一斉に実行されました。お昼の時間に先生の検査があるのですが、忘れておかずの入ったおべんとうを持って行ったときは、とても恥ずかしい思いをしました。

 「日の丸べんとう」とは、戦地の兵隊さんのご苦労を偲んでというのがきっかけだったと思いますが、その頃はまだお米に不自由しなかったのです。
 主食の配給は次第に米が減って麦が多くなり、小麦粉、草の入った黒っぽいうどん、小麦が丸ごとだったり、藷類だったり戦後は砂糖も主食の代りに配給されました。
 おべんとうの中身も、お米は少しで、大根や馬鈴薯、甘藷、甘藷の茎、大根の干葉、栗、何でも加えられるものの混ぜごはんでした。困ったのは、こうりゃんが丸のまま配給になった時でした。手廻しのミキサーで粉にし、木製の箱で片側に金属板を張った電気パン焼器で焼いておべんとうにしました。穀類の全然ないことが多く、ふかしいものおべんとうなどもありました。食糧事情の悪い時代だったわりには、あまり餓えた記憶はないので、多分母親の懸命の食糧探しのおかげで、厳しい時代を生きぬけてこられたのだと思います。

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