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更新日:2020年11月5日

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戦争期の妻として(飯仲・女性・68歳)

その1 銃後の妻

 私が嫁いで半年、1枚の赤紙で主人は戦争に行きました。残された私達は、これからどうしていいかわかりませんでしたが、甘えてばかりはいられません。「白木の箱が届いたら、『でかした、せがれ、あっぱれ』と、お前を母がほめてやる」という流行歌の通り、送り出しました。
 お腹には、3ヶ月の子供、年とった父母と妹と、力を合わせて生きて行かねばなりませんでした。

 農業をしていても、B29が頭をかすめて行きます。思うように仕事はできず、家に一人でるす番している年寄りの所にもとんで行けません。木かげでじっと待っていました。

 毎月、1日と15日には成田参りをしました。お参りに行っても店には売る物もなく、どこもしまっていました。今のように車もなく、片道1時間をすたすた歩いて行ったものでした。

 食べる物、ご飯といえば、麦ばかりか、さつまいもを入れたくず米、これで働かなくてはなりません。麦まきといっても、こやしもやらないので、一反歩一俵しかとれません。これで食べて行けましょうか。とうとう私も病気で寝こんでしまいました。主人が月に一度だけ帰って来ましたが、「お前が死んだら、二度とこの家に帰って来ないぞ」と励ましてくれたので、「どうして、病気に負けるものか」と、立ち上がりました。

 昭和20年8月15日、天皇陛下の「戦争は終わりました」というお言葉に、みんなは茫然として、流れる涙をぬぐおうともせず、聞きいっておりました。

 2、3日して主人が帰って来ました。やせ衰えて、ひげぼうぼう。それでも、私達にやっと春がやって来ました。長い4年間でしたが、陛下のお言葉によって、今日の日を迎えることができたのでした。

 次に忘れては申し訳ないことが一つあります。今、飯仲のまん中を流れている一本の川。これは明治大学の学生さんたちが、勤労奉仕で浅く曲がりくねった川を、自分たちの背丈ほどに掘り、まっすぐにしてくれたものです。雪の日、風の日、手をこすりながら私達の小川をこしらえて下さった皆さんは、私達がお茶を持っていくのを、首を長くして待っていてくれました。明治の明と、公津の津をとり「明津(あきつ)川」と名付けられ、今も流れ続けております。あれから45年、あの時の皆さんももうおじいさんになったでしょう。

 私達も髪はまっ白ですが、皆元気です。「やりの千本もふれば良い」と別れを惜しんだ学生さんたちとお会いしたいものです。こちらにお出での時には、どうぞお立ち寄りください。今は、4人の子供と、7人の孫に囲まれ、幸せに暮らしております。もう、私達だけで戦争はたくさんです。

 明治、大正、昭和と生きて来た人たちは、これから明るい世の中で生きたいものです。亡くなられた皆さまのご冥福をお祈りい致します。

 私は「命くれない」が大好きです。生まれた時から、糸で結ばれていた主人と二人、これからも仲良くやって行きたいと思っております。

その2 出征

 梅が咲き、桜が咲いて春を告げてくれても、私には遠いゆめでした。

 たまに帰ってくる主人が来た時とてもうれしいですが、帰って行く時のさびしさ。

 「体に気をつけて。」と言う言葉も出ず、ただ涙が出てしまいます。榊の垣根越しにじっと見送りました。
私もついて行きたいが、それはゆるされません。毎日涙の出ない日は有りませんでした。

 出征する時、渡辺先生も見送り下さいまして「御目出席う。しっかりするんだ。」と勇気づけられた言葉は今でも忘れません。其の言葉を守って今まで強く生きて参りました。どうも有難う御座いました。

 先生も御体を大切になさってください。

【伊藤勲の作詞】
時の流れはどう変ろうと
清く正しく明るく生きる
人生劇場幕なしドラマ
明日も出番だこの舞台

 今はみんなで、ぼけ老人にならない様に集まる度に歌を歌って居ります。私の昔話を聞いて下さいまして有難う御座いました。

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