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更新日:2020年11月5日

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勤労奉仕と買出し (不動ヶ岡・女性・76歳)

 私の父は、昭和16年頃まで消防に出ておりました。その間に、表彰状や感謝状を頂き、団長殿はじめ役員の方々と、写真を撮って頂きました。その症状や写真を防空壕へ保存致しました。3年後の終戦の8月掘り出しましたら、後かたもなく腐ってしまいました。その残念なこと、今は亡き父に申し訳なくわびております。
 次は昭和17年頃台方へ勤労奉仕に行きました。それは、青い杉の枝をたばねる仕事でした。今のようにゴム手袋はなく、手から血を流しながらたばねましたが、上手に出来ませんでした。その杉の枝は、後日配給になりました。同じく、まきも配給でした。また並木町農事試験場にも勤労奉仕に行きました。一日汗を流して帰る時に、おいもを一貫目位頂くのでした。
 なかなかお米が買えなく片栗粉やコーリャンがしばらく続きました。その後は、さつまいも、じゃがいもが常食でした。それもなかなか手に入りませんでした。

 ある日、年老いた父に麦飯でもいいから腹一ぱい食べたいと言われたました。私はその言葉を聞いて胸がいたみました。しばらく考えた末、銚子の親せきを訪ねてお米を二升心苦しい思いでゆずってもらうことにしました。
 銚子駅から成田方面行に乗りました。車中では荷物を棚の上に上げるのでした。走っている途中お巡りさんが、棚の荷物にさわって、米のような物は取り上げるのでした。順々に、私の荷物に近づいて来ました。ああ父を喜ばせようと思った米を取り上げられるかと思うと、生きた気持ではありませんでしたが、私の荷物の一歩手前でむきをかえて、反対側の方へ行きましたので一息つきました。
 その後、砂糖を全く見ることが出来ません。甘味としてはさつまいも、南瓜に小豆をまぜて、食べるのが上等の食物でしたので、何んとか甘い物を手に入れたく、母方の従兄に手紙を出しましてお願い致しました。すると、甘藷のみつを作ってくれるとの返事を頂きましたので、一週間後、飯岡塙へ大喜びで一升びん2本を背負い、猿田駅に着きました。従兄は、みつのほかに切干とねぎを下さいましたので何よりも嬉しく猿田駅に向かいました。

 叔母の家を出ると間もなく、お酒を飲んだお巡りさんが二人、私に近づいて来ていきなりほほを二度程なぐりました。私は不意のことで、何が何やらわからなくただ涙が流れるのでした。するとお巡りさんが「その荷物はどこから持って来たか。」と言われました。私は「従兄の家からもらって来ました。」と言いますと「うそをつけ、その荷物は持ってはいけない物だから本署まで来い。そして、従兄の家も案内しろ。」ときびしく言われ、私は生きた心地ではありませんでした。言われるままに従兄の家にもどりました。
 その時お巡りさんは一人でした。叔母の家に着くとすぐ叔母は「なあんだ、飯岡のだんなだね。」といいますと、「この人間はここのなんになっておるんだ。」とききました。叔母はすぐ答えました。「この子はわしらのつれあいの姪になっていて大事な子供だよ。」とはっきり言いますと、少してれくさそうに、「今日のところは見逃してやるから帰ってもよい。」とのことで、手帳を出して叔母と私の住所氏名を書いて行きました。叔母が言うには、今日は上棟式があったのでその席でお酒をご馳走になったとのことでした。

 そんなわけで成田方面行はなくなってしまい、佐倉方面両国行の終車で帰りました。私の家では心配して成田へ迎えに3回も出てくれたそうです。今なら電話がありますが、その頃はありませんから、連絡がとれなくて佐倉に降り、京成電車で宗吾に下車しました。身も心も疲れて我が家に着いたのは、12時近くになったと思います。こまごま話しましたが、2本のみつを持ってくるのにこんな苦労があったのです。今の方々にはわからないと思います。そして、現在の幸福とあの時のことを思うと夢のような気が致します。

 その後、戦争はますます激しくなりました。昭和20年8月、私達婦人会は、佐倉57聯隊に仕事に行きました。それは、大きなリヤカーにさんばし(すのこ)を積んで、防空壕の中へ敷くために角井まで運ぶのでした。仕事をしないでも暑い最中、炎天下の外での力仕事はなみたいていではありませんでした。汗はだくだく流れ、作業中、衣は汗びっしょりになり、戦争中でなければ出来ない仕事でした。一生懸命やっているのですが、兵隊さんには私達女の動作は気に入らず、「何しておるんだ、貴女方が一番おくれておる。」とお叱りを受けました。この言葉も忘れられません。

 8月15日終戦となりました。私は持っていたものを取られたような気持になり、2、3日は何も手につきませんでした。
なお、私は終戦の年にお産で女の児を亡くしております。これは片時も忘れられない悲しいことです。戦争はふたたび起らないようにお祈り致します。

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