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更新日:2020年11月5日

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私の生活体験 戦中戦後譚 (田町・女性・72歳)

 私は半身不随の障害を持つ71歳の老婆です。

 右半身駄目なため左で全部やらなければなりませんので文章などというものを書くことはありませんでした。ところが、この前の市政だよりに戦争体験記の募集について出ていたので書いて見ようかなと思いました。
 さて眼を閉じて見れば、すぎた日々が走馬灯のようにはしります。私達年代の者は、半生を何回もの戦争の経験しています。そして最後の昭和18年12月8日の負け戦さ、今にして思えば、ねこがとらに向かってたたかいをいどむようなものです。

 ラジオから流れる軍事マーチに手を打って踊り上ったのもつかのまの糠よろこびでした。
 年が明けて4月25日、主人にも召集令状がきまして佐倉連隊に入隊しました。ひそかな面会後、中支へ出発しました。だんだん戦況が不利になり高等学校は半分兵舎になりました。

 私の家も兵士の面会所になり、大勢の人々で家の2階も満員になりました。この人達もいつかは、どこかへやられるでしょう。毎日川へ入って魚とりをして、一見のんきそうに見られました。

 町はだんだん窮屈になり出し、衣料は切符制度、あとは全部配給制度となりました。お店も開店休業のような有様です。こうりゃん、米も配給になりました。

 今思い出してもぞっとするのは、敗戦まぎわの警戒警報の思い出です。

 「只今敵機らしきもの一機、九十九里の東南方にあり」ラジオからの放送に子供二人、ばあちゃんが小さい子をおぶって姉の方を手を引いて私の妹(当時ここから実科高女へ通っていた)が貴重品の入ったカバンを持って東町の椎橋さんの大きな防空壕へ逃げて行きました。つくかつかないうちに、空襲警報発令です。

 焼夷弾の光が眼を奪うばかりです。B29が編隊を組んで東京方面に飛んでゆくのがよく見えます。

 私はハラハラするばかり。じいちゃんは出てきません。ふとんをかぶって

「どこで死ぬのも同じじゃ、どうせ死ぬならふとんの上で死にたい」と言いました。3月20日の大空襲、今にして思えば、東京方面の空は真っ赤でした。

 あとで聞いた話だけど、それで大半は焼け野原になってしまったそうです。

 千葉県では銚子が機上掃射で一家全滅の家もありました。灯台の一部分は今でも大きな傷跡が残っています。

 成田はおかげさまで何事もなく幸いでした。そして広島、長崎に落とされた恐ろしい原爆は敗戦を一挙に進めたものです。

 8月15日にあのラジオから流れる玉音にぼうぜんと流れる涙とは裏はらに心の内ではこれでいいのだ。もう戦争はこりごりだと皆はいわぬばかりです。

 でもそれからが大変で、食料はなし、お店も出来ず、年寄りと二人の子供を抱えて私は必死です。現八日市場市へ、前はここから女学校に通っていたのです。

 働き者の叔母夫婦に甘え食料の調達です、家の前庭には一面の蓮田がありました。見るものみんな欲しくなり、たちまちリュックや手さげカバンも一杯になりました。

 「きっと恩返しはしますからね。今は助けて貰う他ない」と言ったら、叔母は「お前が成田から来るくらいたかがしれてる。いつでもおいで」と言ってくれました。

 私は小さないとこにいくらかのこずかいをあげて帰途につきました。

 今の人には考えもつかない道のりを月に3回ぐらい、体がくたくたになるくらい山道がありました。むじな、きつねが出て人を化かすといわれていました。

 又どんな悪者に出あわないともかぎらないから金のピンを少し多目にさして行き、出たらそれで眼をねらえと、年寄りが教えてくれましたが、そんな人は出ません。次々にあたりの灯は消えてもう8時半、家へ帰り着くのは10時過ぎだからもうひとふんばりだと気をとり直し、ようやく我が家へたどりつきました。

 その外、現多古町の中村の伯父の家でお米の配給所をしていたので、そこへも何度も行きました。伯父はいつでも配給のことならこいと言ってくれました。そしていつでも配給ねだんでくれました。あまり度重なっては悪いので、私もなけなしの大豆油を3合ほどお礼に持って行った事は今でも覚えています。
 家へ帰って見ればおばあちゃんが食事の支度をしています。お米を大切に使って半分芋を入れての夕食でした。子供たちは、ちゃぶ台一杯芋をつまみ出してしまう始末です。

 「食べられない人もいるのにそんなことをするとバチがあたるよ」といいながらその芋は大人の口に入りました。

 そのうち東京方面から買出し部隊が成田に来ました。十余三を始めここの近在はなんでも豊富にあり、成田はその中継所になりそうです。私の家にも泊客が来ました。

 もちろん素泊まりです。中にはお芋や南京豆やらお米の人もありました。これで一泊させてくれといってきましたが、だんだんなべかまやコンロを持ち込み煮たきをして、しまいには間貸のようなものになってしまいました。でも、お米やらお芋や色々ものを部屋代の代りに持って来てくれたので、私はもうあんな苦労はせずに済みました。

 じいちゃんも、父ちゃんがくるまではその場稼ぎで上等だといってくれました。

 大木さんと言う子連れの夫婦が十余三(出身地)まで1日歩いて買出しに行き皮付きの南京豆を買って夜なべに皮をむいてその豆を炒っては、セロハンの袋に入れて、次の日は東京へ持って秋葉原で処分してくるのです。

 一人っ子の幸ちゃんは戦災をのがれただけあって度胸がよく、利口で食物さえあたえておけば、一日中家の子と遊んでいます。

 ある日注文が殺到したので母ちゃんも運び屋を手伝ってくれないか、おもしろいし留守番もいることだし、私は好奇心にかられて東京や十余三に行って見たくなりました。とにかくじいちゃん、ばあちゃんに留守番をたのみ十余三へ買出しに行きました。

 大木さんは知人が多くお昼の支度も出来ている始末です。私が顔を出すと

「なんだ中幸庵(旧屋号)の母ちゃんじゃないか、よく来たなあ、さあ、遠慮はしないで食べて行ってくれ」と大変なもてなしにあい、帰りには感謝しながらリュック一杯の南京豆を背負って帰りました。その夜からが大変、大勢の部屋の仲間や近所の知人が集まり皮をむく人、炒る人、袋へ入れる人、12時すぎまで大さわぎでした。

 そのよく日私は、久し振りで京成電車に乗り込みました。今まで家にばかりいたのが、ただ見るもの、聞くものが新鮮で私はすっかり子供の様な気持ちになって上野に着きました。秋葉原までは人の波にのまれそうで今世界の秋葉原といわれるのも無理もありません。

 その復興ぶりにはただ驚くばかりです。大木さんは品物を5分ぐらいで処分してきました。「母ちゃんは初めての日だから今日は映画を見せてやる」と言って、映画館へ3人で入りました。題名は忘れてしまいましたが、本当に楽しかった記憶に残っています。

 こういうしょいこも板について十余三と東京へ毎日でした。子供には別に不自由はさせなかったけれど何しろ代用石けんのためと大勢の人の出入りで頭にはシラミをうつされ客ぶとんにもシラミの行列です。
 今の人には話しても分らないでしょうね。町では時々DDT散布に来てもその時ばかり。長女の方も学校でやるくらいたかが知れている。
私はたしかこれは戦争がもたらした落とし子だとも又遺産だとも思いました。

 そうこうしている内に年も明けて新年早々そちこちで帰還兵の話が出てきました。
ラジオから流れる放送には博多湾から浦賀湾から何艘と上陸を告げてきました。
じいちゃんが大分弱って寝込んでしまいました。早く父ちゃんが帰ればいいなあと言っていました。

 その内1月13日の朝、ばあちゃんが仏様を拝んでいる時、お店の硝子戸があいて大きな荷物を背負った黒ん坊みたいな人が立っているので、かけよって見るとまさしく父ちゃんだった。「帰ってきたよ」とどなりました。

私も台所から飛び出してただただうれし涙がこぼれました。ばあちゃんは1月13日は、めでたい日だ、孫清和の誕生日に父ちゃんが帰って来るなんて一生忘れない良い日だと大喜びでした。ちなみに主人の船は中支から片2便だそうです。

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