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更新日:2020年11月5日

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戦争の傷跡 (野毛平・女性・55歳)

 昭和19年の或る日のことでした。学校から帰ると、私の家に大勢の人が出入りしておりました。なんだろう…と思いながらソッと家の中を覗いて見ると、がっくりと肩をおとした父の姿と涙でクシャクシャになった母の顔、何事が起ったのだろうとびっくりしました。私が帰ったのを知った母が側に来て、「兄ちゃんが戦死したんだよ」と言って、また涙を流していました。「嘘だ、何かの間違いだ」と自分に言い聞かせるようにしながらも、不安な面持ちのなかで日が過ぎ、遺骨を迎える日がきました。
 父と親戚代表数人で迎えに行き、私達は家で待っていましたが、予定の時間を過ぎてもなかなか帰ってきませんでした。千葉駅で空襲になり、列車がストップしてしまい遅れたとのことでした。
 遺骨の箱は軽かった。兄は船で何処かの島へ行く途中で攻撃され、沈没してしまったのだそうです。乗船する前に兄から身廻り品と手紙が届いておりました。それには○○港から○○方面へ向って出発すると書いてあるだけで、いったい何処へ行こうとしていたのか、それは軍事機密で書くことが出来なかったのでしょう。母と妹の私達に心配をかけまいと、その時期が来るまで父の胸に収めておいてほしいとあり、私達には「父母をよろしく頼む」と記してありました。兄はこの船に乗ったら二度と生きて帰れないことを知っていたのです。

 欲しがりません勝つまでは……何事も戦争のため、戦地で戦っている兵隊さんの苦労を思えば、どんな我慢もできる。と我慢の生活でした。だんだんと物資が不足し、教科書も一人一冊なく、上級生のものを借りて間に合わせました。着物が次々とモンペに替わり、木綿の物は普段着に、絹の物は外出用にしていました。
 体育の時間になると、竹槍、ナギナタの練習でよく手にマメが出来てしまい、そのマメがつぶれた痛さに泣いたこともありました。校庭の片すみに防空壕を掘ったり、学習より作業の方が多く、農家の手不足の家へ麦踏みに行ったこともあります。
 食糧増産とばかりに山を開墾し、木の根を取ろうと土の中に指を入れて、むかでに刺されてとび上がったこと等、思い返すといろいろなことがありました。贅沢は敵と言われ、私達の廻りからお菓子が消えていき、おやつはさつま芋と、たまにサトウキビのアメを作ってもらい喜んでいたものです。物資の不足と食糧不足はますますひどくなっていきました。

 昭和20年8月15日、6年生の私は日直当番で登校していました。校舎をひと廻りしてから校庭の掃除をしていた時、校長先生から学校内に居る生徒は全員校長室の前に集合するように言われました。「これから重大な放送があるから心して聞くように」と……。
 それは終戦を告げる天皇陛下のお言葉でした。内容は小学生の私達にはむずかしく理解しにくいものでしたが、校長先生が肩を震わせて泣いておられました。とにかく学校で一番偉い校長先生が泣いたことが私たちをびっくりさせ、たいへんな事が起ったという印象が強く残りました。放送が終わってから、「日本は戦争に負けた。これからの日本はどうなるかわからない、君たちもしっかりしなければならない」と話して下さいました。日本が負けた等とはとても信じられませんでした。日本は神風が吹く、絶対に勝つと言われ、それを信じておりましたから、いや信じこまされていたのかも知れません。

 戦争の傷跡は悲惨なもので、私たちの廻りにも焼夷弾が落され大きな穴があいていました。東京大空襲、広島、長崎に投下された原子爆弾、沖縄の戦跡、とても言葉では言い表せないものでした。
 足の踏み場のない死体の山、苦悩に歪んだ顔、母は子をかばう様にして息絶えています。まるで地獄を見る様で思わず背筋に悪寒が走り、臭気が鼻をつく様な錯覚さえ感じられました。これは私が広島の原爆の写真展を見て感じたことです。私も不自由な生活はしましたが、まだ幸せであったと思います。二度と戦争がくり返されない様祈り、後世に語りつぎたいと思います。

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