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更新日:2020年11月5日

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敗戦に生きる (西三里塚・女性・74歳)

 「奥さん、本部から緊急連絡に参りました。本日正午重大ニュースがありますので、全員工場のマイクの前に集合とのことです。以上終り。帰ります」
 聞き返す間もなく伝令は行ってしまった。昭和20年8月15日のことである。
 二度目の伝令が来た。「本日の重大ニュースは玉音放送です。身仕舞を整えて子供も一緒にマイクの前に立つ様にと副所長よりの伝言であります」副所長とは主人のことで、「大東亜建設青年訓練所」の責に任じていた。
 当時、この辺りの本部とは、現在の三里塚の並木商店に置かれていた。100名以上の生徒が起居出来る大きな家で、そこに訓練所もあった。東南アジアの農工業の地域指導者育成を目的に所生は広く全国から募られ、蒙古からの留学生15名を含めると、4期生まで110数名を数えたのである。

 主人は昭和17年から週2時間南方事情の講義を頼まれ東京から通っていたが、所長の応召で一切の運営にあたることになった。昭和18年、このことで私たちの人生は一変した。100名以上の大世帯の切り盛りは生やさしいことではなかった。しかし、所長が帰られるまでは死守せねばならない。これが私たち夫婦の鉄則であった。
 昭和20年3月からの東京大空襲が始まると私たちは危険を逃れてここに居を移した。
この頃より訓練生にも召集がくる様になり、十三町歩の農場と家畜の世話は、ますます大変になったが、この緊張感の中でも団結はしっかり保たれていた。
 玉音放送の伝令が伝えられたのは、この様な状況下である。当時の晴着はモンペであったから、私も子供も同様にこれに着替え、急ぎ工場のマイクの前に立った。誰も声を掛ける者はいない。みんなが一つのマイクを凝視していた。時折、ジジジーという雑音にビクッとする。私は弦が切れる瞬間の緊張感で陛下のお言葉を待った。そして放送が始まった。私は陛下の低く沈痛なお声を聞き洩らすまいと全神経を耳に傾けた。「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え…」みんながボロボロ泣いていたが私には涙が出なかった。それよりも最後の決意までしたこの気持ちをどう処理すべきか。その後、数日間は食欲もなく唯考えに考えた。敗戦。有史以来3千年の歴史は覆った。忠君愛国の精神を命に染めて散った英霊に対し、どう応えて行くべきか。これから先、何を心の支柱に生きるのか。悩み苦しんだ末の結論は誠の心で生きていくことだった。
 主人も動揺する世相の中で若者の心をぐっと掴み、副所長としての責任を果すのに懸命であった。幸いにして所長は21年春、無事帰所されたが、訓練所も解散となり、所生も名残りを惜しみつつ次々と帰郷していった。

 主人は国に帰らぬという所生と二人で新たに開拓者として入植し、馴れぬ開墾に挑戦した。私とて食事の支度は、主人の開墾以上に大変であった。服や着物を持って農家に行くことも覚えた。新しい上下の作業衣で馬の歯のとうもろこし2升、総絞りの絹の羽織一枚で床芋6貫匁になった。
 妊娠7ヶ月の身重で赤ん坊を背に3才の子と、6貫匁の芋と2升のとうもろこしを持って山坂を超えた。我ながら「母は強し」という言葉をしみじみかみしめながら。途中、工場でとうもろこしを粉にしてもらい、夕食はこれで芋を入れた団子汁を作った。すると主人、「この紫色の物は何だ。」「それはあんこ芋の床芋です。」と言ったとたん、食台毎庭に逃飛した。「俺はまだ床芋を食う程落ちぶれていないわ!」と。
 関白殿下の意には逆らえず、今度はお煎餅の様に薄く焼いて出した。これはお醤油をつけてボリボリ食べた。そして「母ちゃんごめんね」とやったので皆で爆笑したものである。
 以来私は妻の座を捨て、可愛くもない老けた大きな子供とお腹の子も含め、4人の子の母となる決意をした。 

 その4人目の子が誕生したのが21年8月25日。しかし、最初から母乳はほとんど出ず、牛乳に頼ったが、その牛乳も毎日は手に入らない。やがて母体に引き続き、赤子の影響不足も日を追って進んだ。体中におできができ、便は白くなり、泣声も弱く、やっと首を廻すだけの力で私の姿を追った。
 そして、3ヶ月後の11月24日、小さい蕾のままで散っていった。
 ああ戦争さえなかりせば美しい娘に成長していたであろうにと思うと私の生涯の痛手としてうずくのである。
 許すまじき原爆。赤紙1枚で海に山に散った英霊。それに泣く妻たち。そして母。
 私も一人の母として戦争を憎み世界中の母に訴えたい。戦争で一番苦しむのは、いつも母であり、女なのだ。私は思う。平和を願う母の心に国境がないことを。
 だから、命ある限り平和の尊さを訴え続けていく。

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