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更新日:2020年11月5日

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私の生活体験 (幸町・男性・57歳)

その1 小学生期

 満州事変が勃発した昭和6年7月18日に私は出生致しました。
 幼稚園児の時代は戦争ごっこ等の戦時に染まった遊びが主だったと思います。中でも佐倉の陸軍病院の傷病兵の楽隊を先頭にして行進し慰問を致した事などいまだに思い出されます。
 小学生の頃は、日中戦争、太平洋戦争がありましたので生徒は、皇国史観の思想に燃え戦地の兵隊さん達に慰問の手紙等を書き、又南京陥落シンガポール陥落の際には提灯行列を致して戦争祝賀の行進を町内で行いました。戦争遂行のため、身体剛健づくりが学問と並行して重要視されて、毎日体操の授業があり、心身を鍛えました。裸足でしかも、半身裸で、下半身はパンツ1枚の姿で先生の号令の下に一糸乱れずに運動を行い、又次の世代を担う国民としての自覚を持って毎日の学習にも明け暮れました。

 小学校に登校する時には各町内の班別に集合し班長の号命の下に隊列を組んで行進し、正門に入る際には歩調をとって入門し奉安殿迄行き拝礼を致して解散し、各自の教室に入室して一日が始まりました。
 当時の四大節には諸党にて宮城遙拝を致し、国家「君が代」を斉唱し、校長先生の教育勅語の朗読があり、その後に少国民としての戦時下の自覚と責任の講語を賜わり、そのほかの来賓の方々の祝辞を受けて御祝いの儀式を致しました。
 又1ヶ月に1度は遠足があり、乗物は使用せず徒歩にて軍歌、唱歌等口ずさんで一日を過ごした事、出征兵士の見送りは「祝出征○○君」の幟を立てて各自手に手に日の丸の小旗を持って軍歌を歌って成田駅まで見送った事、又名誉の帰還「戦病死」には成田駅に黒腕章姿にて出迎えた事等は今だに脳裏に鮮明に残っております。
 防空演習、退避訓練等も諸先生ならび上級生の指導の下で行われました。

 茨城県の内原満蒙開拓青少年義勇団の隊員一同が成田小学校に参り、鼓笛の演奏、隊員の生活体験等の報告の会合も忘れることは出来ません、
 当時の教育目標は「七生報国」「至誠勤労」であり、その下で情熱に燃えた諸先生方に松下村塾の吉田松陰先生に匹敵するに劣らない薫陶をうけられました。
 小学校4・5・6年生時代は太平洋戦争に突入した時代であり、食料も不足し自給自足の下に学校農園の作業も開始され、出来た甘藷芋は輪切りにされて、校庭一面の筵の上で干され、又養豚も始まり、高等科の先輩達は各家庭を廻って餅になるものをもらい歩き、飼育に励み、食糧増産に精を出しておりました。
 小学校6年の折は、上級学校進学の為に先生方により補習が毎日夜遅く迄裸電球の下で行われ、真剣そのものでした。当時の中等学校入試は戦時下であり、体力測定「懸垂。俵かつぎ競争。百米競争。手榴弾投げ。」と口頭試問「学力検査」等で行われ、特に印象に残っておりますのは「修練」とは何ぞやと言う質問でした。

その2 中学生期

 昭和19年4月の成田中学校で奉行された入学式後に当時の軍事教官の小柳陸軍中尉より、戦時下に於ける中学生の責任と自覚についての講話の中で教官は「貴様達生徒を大東亜共栄圏内の各国々の指導者として養成するので一層奮励努力する事を望む」との言葉は今でも鮮明に蘇って来ます。
 各教科の学問の中でも軍事教練、武道は特に重点とされて教育を受けました。中学校の諸先生方もそれぞれの専科を担任されて熱心に学生を指導鞭撻されて下さった事は人間形成の上で非常に有意義であったと確信致します。
 又先生方、上級生に対する礼儀作法は厳しいものがあり、映画館、飲食店等は立ち入り禁止とされ、遊蕩の気に流れる事は心身の成長には弊害をともなうとの趣旨で厳しく指導されました。中学校生活も戦争の熾烈の度を増すにつれ、昭和19年9月頃から上級生の3、4、5年生は学校を離れて軍需工場に動員されて行きました。学校に残った1、2年生は近くの陸軍飛行場の基地拡張工事「草深、誉田、八街」に出かけて行き、戦争遂行の為に汗水を流して働きました。

 当時は現在の様な機械による工事ではなく総て人力に頼る人海戦術の工法で行われ、土は円匙と万能で掘り、運搬はモッコとトロッコを使い、地固めコンクリー製のローラーを人力を使って引張ってころがして固めました。又空襲も激しくなって来ましたので陸軍の監督の将校は敵機の爆弾投下の際は音にて近距離、遠距離、至近距離かを判断する事、又退避の方法等の説明をなされて自分で自らを護る様強調されました。
 又米軍機による「降伏の勧告」「現在の戦況」「為政者と国民の不協力を促進する文」等の投下ビラは必ず軍に届出をして、自分で持った事は禁止されていると強く訓示されました。そのほかに旧久住村の水田の改良工事、出征兵士宅の農繁期の奉仕、旧豊住村の十日川の改修工事等も授業を犠牲にして行われました。又動員されない日は学校にて授業が行われ空襲の時は裏の成田山公園の山林に退避し、解除になると教室に戻り、授業を再開しました。

 入学しました1年生の時には全学年4百数十名が学校に在籍しておりましたので毎月8日の大証奉戴日には全校生徒「3・4・5年生は武装して」と校長先生を始めとして諸先生軍事教官一同で校旗を先頭にして町内を行進し成田山新勝寺と埴生神社に戦勝祈願の参拝に参りました。
 又陸海軍の軍人達が学校を訪れて戦局講演会を催して軍に志願する事を勧誘されて先輩達が海兵、陸士、海軍予科練等の軍の学校に入学、入隊されたために、学窓を去って行った事も忘れる事は出来ません。
 昭和20年になりますと戦場は本土に近くなり、学校には私共2年生と下級生の1年生のみが残り上級生の3、4、5年生は軍需工場、軍の基地建設等に動員されて不在でした。当時は完全に制空権は米軍が握り、日夜B29艦戴機の空襲を受け各主要都市、軍需工場、軍施設は大きな被害が続出する状態でした。その折5月から学舎は職員室と事務室を除いて、本土決戦部隊に接収され、私共は各自の机を成田山新勝寺客殿に持ちこんで裸電燈の下で作業のない日は学問に励みました。そして6月になりますと1、2年生は現成田ニュータウン内の山林で本土決戦用のガソリンの入っているドラム缶を入れる防空壕掘りの作業をする様になり、雨の日は仮校舎で授業をうけ、天気の良い日は毎日防空壕掘りの作業を続けました。当時は、食糧、衣料品そのほか一切の生活用品は極端に不足し、毎日代用食の雑炊のすいとん、馬鈴薯、甘藷芋を不平を言わずに食べました。
 又どこの家庭でも両親等は自分達が我慢して、育ち盛りの子供達にひもじい思いをさせたくないと食べさせて下さいました。今までもその恩は私達一同忘れる事は出来ません。学生服はつぎの当った服で、戦闘帽にゲートル、地下足袋で作業を致し、昼食は大樽に入った麺を代用醤油のお汁で食べる事が、唯一の楽しみでありました。

 毎日作業現場に集合し点呼が有り、総指揮官のひげ顔の陸軍中尉殿が訓示し、各班は10数名で構成され二等兵の兵士を班長として作業をするのが日課でした。作業は生徒達の人力で行われ、班長は監督の名の下で作業せずに指示するだけでした。生徒達は戦争の勝利を信じて黙々と不平不満を言わずに、防空壕掘りに精を出しました。
 寸暇を惜しんでの軍事教練では、教官から諸君は中学生報国隊員である米軍が九十九里浜より上陸した際は竹槍で必ず一人は殺害するのが日本男子の本懐であると訓示され銃剣術の指導をうけました。
 休暇の日に土屋地先の根木名川に友達と水泳に行き、空襲に見舞われ水田の中を逃げ廻った事、又撃墜された敵のB29艦戴機の現場に自転車に乗って駆けつけた事等も記憶に鮮明に残っています。

 8月15日も晴天で暑かった。作業現場に行くと今日正午に天皇陛下の重大放送があるので帰宅せよとの事で作業はなく、生徒達は解散しました。私は家族一同で当時の箱型の真空管4本のラジオの前に正座して玉音放送を聞きました。雑音のひどい中で陛下の「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、太平を開かんと欲っす」との玉音を聞き、このお言葉で戦争の終結を知りました。その後、軍隊のいなくなった学舎に帰り荒廃した学校施設の復帰に励みました。
 一番私にとって印象深い出来事は銃機庫にありました先輩達の使用した軽機関銃、小銃帯剣等の武器を大八車に積載して成田警察署に友達と運搬した事です。
 出征した先生方も復員して学園に帰って参りました。先輩達も軍服姿にて学園に帰って参り元気溌剌と行動していた事が走馬燈の様に頭にうかんで参ります。

 私達が生まれてからの終戦迄の15年間は正に日本開闢以来の激動期でありました。
 この大戦中の世界各国の多数の犠牲者の死を無にせずに私達は平和がこの地球上に永遠に続く為に、粉骨砕身して尽力する責務を担っていると確信致します。

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