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更新日:2020年11月5日

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戦時中の生活体験 (下方・男性・59歳)

 戦時中の生活体験と言えば、先ず苦痛な事や悲惨な事が、浮んで来ます。戦争と言うむごさから、当然の事かも知れません。大東亜戦争の開戦から終戦までの3年8ヶ月の間、自分乍らに体験した様々な出来事の幾つかを、考えて見たいと思います。

 戦争の始まった昭和16年12月8日。あの朝、ラジオの臨時ニュースは、人々の心をかりたて、戦争と言う恐怖感の余り、寒い朝のように記憶しております。
 あの特殊潜行艇に依る真珠湾の攻撃も、有名な戦果の一つでした。翌17年には、アジアの殆んどの地域を占領すると言ったまさに破竹の勢いでした。日本中が、戦勝ムードに湧いた時代でも有ったようです。然し、勝利の陰には其れなりの損害も有った事は、否めません。

 国内では動員制度が実施され、一家の働き手が家庭を離れる悲しい場面も見られました。次第に戦争意識が高まる中、生活物資は配給制度となり、精神的にも張り詰めた気持から、物に堪える心構えが養われていったような気がします。
 家が農家だったせいか、食糧増産と言う言葉をよく聞きました。供出の為、米俵を牛車や馬車で、農家から運び出される光景も見られました。あの当時は、牛馬が運搬や農作用の基幹でしたから、何処の農家でも飼われていたようです。

 あれは、18年の麦刈の頃でしたが、其の大切な馬が軍馬として、徴発された事が有りました。家の人達は、時節柄止むを得ないとあきらめてはいたようですが、年少の自分には、苦労してかいばや、草を与えた惜別の情に、理解できなかった事を覚えています。
 生活物資の不足を補う為、種々と関係機関の指導が有ったようです。其の一つに、砂糖の代用にする為さとうきびを使った時が有りました。又、甘藷や大根めしを弁当に持って行った事も思い出されます。

 18年の6月でした。本土空襲に備えての、疎開者の受入れが有りました。農家は、住んでいる部屋や空家が有った為、そう言う人達を入れなくてはならないとの指示が有ったようです。我が家にも入居したのですが、都会の人達にはそれなりの厳しさが有ったようです。空襲に対処する為、火災防止対策として、道路に面した片側の住宅の撤去が行われ、住み家がこわされる無念な思いをした話を聞き、ここにも戦争のむごさが有った事を感じました。

 18年の7月でした。学校の校庭での出来事ですが、始めて敵機を見た時の事です。江弁須の山林上空を、八代の方へ飛んで行ったのです。余り近いので、操縦士の姿もはっきり見え、先生の、「敵機だ。」と言う声にぞっと、寒気がしたのを覚えています。始めての本土襲来の時でした。

 昭和18年9月頃には、志願募集が頻繁に行われ、満蒙開拓青少年義勇軍を志望した事がありました。内原訓練所へ実習にまで行き乍ら、果せずして悔やんだ事を覚えています。然し、後に渡満した友人から厳寒の満州での苦労話を聞かされ、特に、開拓団の実態はひどかったとの事です。あの時、もし自分が行っていたらどうなっていただろうと、複雑な思いをした事も忘れられません。

 戦争が長びくにつれ、食糧や、生活物資の不足は深刻で、配給だけでは生きて行けない必死の食糧戦争でも有ったのです。農家も、食糧の供給にはかなり義務付けられ、最終的には強権発動と言う事態も有ったようです。

 又、20年の4月でした。本土空襲の際のB29が、酒々井町伊篠へ落ちた時が有りました。あの時、緩やかにとんで来て二つに折れ、落ちた瞬間凄い黒煙が上がったのですが、記憶に残る人も多いと思います。又、此の頃、本土決戦に備えての決戦隊が、寺院や、消防詰所に駐留していた時が有りました。近くの、農家へ食糧の調達や、入浴に来ていたのですが、種々と故郷の思い出話を聞き、農家の出身との事で、話が相通ずるものが有りました。後に茨城県守谷町の方へ移動したのですがどうした事か思い出されます。

 昭和20年3月20日、東京大空襲が有りました。此れまでにない被害で有ったとの事です。其の後、私用で東京を通過した時の事ですが、見渡す限り焼け野原と化した中、水道の蛇口だけが点々と立ち残っているのが見えました。橋の上からは、異様な姿を見ました。焼夷弾による火災の暑さから逃れようと、川にとび込み、亡くなられた人々の遺体が、岸辺に浮いて居るのです。全くの悲惨な情景に、心ひるんだ事を覚えています。

 連日のように、空襲警報のサイレンが鳴り、夜間の空襲時には、燈火管制がしかれました。暗闇の中ラジオから流れる情報に、耳を澄まし、やがて解除の報に安堵した事も忘れられません。そして時は過ぎ、20年8月、原爆が広島、長崎に投下され、遂に終戦となったのでした。長い戦争に依る食糧や、生活物資の極度な不足により、激動の時代はまだ続いたのでした。

 然し、あの廃墟の中から、現代の恵まれた時代がこようとは、誰が知る由もなく、全く働く事に精進した時代と言えます。こうして40数年前を考えて居ると、あの時代に帰ったような錯覚さえ覚えます。これまでの思い出も、ほんの一部に過ぎません。年月が経つにつれ次第に風化されようとしています。あの悲惨な時代を繰り返してはならないとの思いは、体験した人達誰もが共通の願いと思います。次代への灯として、何時までも燃え続く事を念じつつ、つたない体験文では有りますが、投稿した次第です。

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