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更新日:2020年11月6日

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甲板掃除はじめ! (中台・男性・61歳)

 私はその頃学生だった。学校の寄宿舎に入っていた。昭和19年頃であろうか。日本の敗色が濃くなり、戦時一色の体制はすべての国民生活が戦争に参加することだけであった。配給制の寮の食事では足りず、月に1、2度は家へ帰って食糧を貰って寮に運んでいた。寮には満州・台湾・樺太の友だちもいた。北海道・九州と地方から上京して勉学してた友が多い。寮生の中では一番近い私は友人の笑顔を心に浮かべて家に帰ってきた。

 その間の事情は定かでない。聞きたくとも父も母も他界した今、聞くすべはないが、門前町成田は旅館が多い。成田参詣での参拝客の宿として旅館が栄えた。仲町・田町・本町と成田山への参道に並ぶ旅館は皆、戦時体制の一つとして海軍病院の分院になった。
 現在の信徒会館の所に蓬莱閣ホテルがありその建物が撤収され、本部となり軍医・そのほか医療の施設が整えられた。
 私の家にも10数人の白衣の傷病兵が宿泊していた。軽症者なので暗いイメージはなく皆明るい。分隊長Yさんの号令がとぶ。「整列!甲板掃除始め!」5人位雑巾を並べて一斉にすべってふく。1、2。1、2。軍艦と違いわが家の廊下などすべってふく掃除はすぐ終る。3階、2階、1階、兵隊さんによってたちまち終る。「整列!甲板掃除終り。」たまに帰宅の私は物珍しい白衣の兵士の尻の動きを眺めていた。Yさんは竹刀のような棒をもって見回っていた。軍医には会ったことがない。毎日衛生兵がいばってやってくる。「整列!番号!異常はないな。」

 終戦の詔勅は、わが家のたった1台のラジオの前で兵隊さんと私の家族と聞いた。
 除隊となったYさんは北海道に帰った。その後も我が家と交流は続いた。農業試験場で働いているYさんは北海道で収穫したじゃがいも、玉ねぎを送ってくる。母はさつまいもや落花生を送り、南の作物と北の作物が互の戦争中の心をつないだ。

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