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更新日:2020年11月6日

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西和泉区の空襲 (押畑・男性・70歳)

 昭和19年11月24日、この日は大東亜戦争史上、東京初空襲という重要な意義を持つ日である。米領マリアナ諸島にボーイングB29重爆撃機の基地が10月に完成し、日本本土全域が戦略爆撃の圏内に入ったことは、軍以外の一般国民は全く知らなかった。多少の不安は感じつつも「帝都」だけは、敵機の蹂躙にまかすようなことはないと、軍部の力を固く信じていた私にとって、晴天のへきれきであり精神的衝撃は余りにも大きかった。

 アメリカも又、日本国民に与える心理的動揺を狙った作戦であったことは云うまでもない。この東京が初空襲された日、成田市の旧中郷村西和泉区も大空襲を受けたのである。このような重大な、しかも成田市内唯一の空襲災害事件も、なんの記録もなく40有余年の歳月が流れ、今日このことを語る人もごく僅かとなって、星霜と共に忘却の彼方に消え去ろうとしている。私は、職務上この空襲災害を検証した者として、2人の生き証人の話を基に記録に止めて置きたいと願うものである。

 アメリカ戦略爆撃機ボーイングB29編隊が西和泉上空に侵入した経路については詳らかではないが、戦災誌の東京編等から状況を判断するに、この日東京初空襲したB29は、3編隊18機といわれ、そのうちの後尾の1編隊6機が、南東海上より東京都江東区に侵入した。その頃の帝都防空態勢は健全であり、砂町附近にあった高射砲陣地の対空砲火が凄まじく弾幕を張ってこれを阻止した。敵機はこれを回避しようと急拠北東に迂回したが、国府台付近の高射砲陣地から砲火をうけ被弾する機もでき、再度帝都に侵入できず、そのまま一直線に東方海上に遁走することとなったらしい。船橋・習志野・佐倉・成田と飛来し、西和泉上空に至って6機に搭載してあった全爆弾を投下したのである。災難とはまさにこのこと。

 この日正午の天候は、晴天でときおり白雲が浮び無風、おだやかな冬日であった。12時20分頃、初弾は芦田区八幡神社の裏の坂道に投下され、西和泉区に集中して落下、それから東和泉と小泉区一部に至る間、爆弾・焼夷弾の混合で約50発以上投下され、何れも100K級の大型爆弾である。昼時でありほとんどの家族が在宅していた。これほどの大爆撃を受けたにもかかわらず人命に及ぶ被害がなかったことは天佑というほかはない。

 火災は随所に起り、のどかな里山は一瞬にして大混乱に陥った。このときの状況を、西和泉の岩澤老はこう語っている。
『昼食を済ませラジオを聞いていた。空襲警報が発令され、東京海上に敵機数編隊本土に接近中厳戒を要す。とのことであったが、西和泉の山の中までは先づ心配あるまいと思い、晩生の稲を入れるために厩から馬を出し荷鞍を付けていた。そのとき芦田の八幡様の方から、腹にこたえるような大きく重みのある飛行機の爆音が響いてきた。その時大きな影が私と馬を横切った。思わず空を見た。胴体も翼も銀色に輝いた今まで見たこともないような大きな飛行機の編隊が、西和泉の空を覆い、産土様の方へ飛んでいった。言いようのない恐怖が体を走った。続いてゴーという音とカラカラカラという異様な音が空から襲った。次の瞬間、ドスン・ドスン・バリバリという大音響とともに地面がゆらぎ、もうもうたる黒煙と爆風によって、木々の梢が狂ったようにゆれ動いている。何が起きたのか咄嗟に判断がつかず地にひれ伏していた。

 それが鎮り数分間、どの家からも何んの声もしない。人々は皆、放心状態にあったのか、不思議なほど静寂な時間が流れた。私は、驚きおののいている馬をしずめ安全な場所へ放し、ようやく空襲であることが、銀色の大きな飛行機と関連して考え解ってきた。
 そのとき、火の見の半鐘がジャンジャン鳴り出し『空襲だ、空襲だ…』叫びながら半鐘を打っているのが消防団長であった。このときから西和泉は、大混乱に陥った。『城固寺が燃えているぞ』誰かが云った。お寺に駆付けた。お寺の内部全体は紅蓮の炎に包まれ、当時の消防ポンプでは施す術もなく、ただ茫然と立ちすくむのみであった。
 そのとき誰かが大声でどなった。「繁右衛門も、治平も、治右衛門も火事だ」「善兵衛の裏も燃えている、大変だー。」それっと全員が弾かれるようにその方へ飛んで行った。
 西和泉の菩提所城固寺は、大型焼夷弾の直撃を受けて20分ほどで全焼したのである。』
当時の恐怖の思い出を、岩澤さんはこのように語っている。

 また、この日の空襲を女の立場から、西和泉の岩澤さんは次のように語っている。「B29の編隊が西和泉の上空に飛来したことは、全く気が付かなかった。ザーという音に続いて、ドスン・ドスンという地響きとバリバリという大音響、黒煙がふきあげ、真暗になり、何が起きたのか解らない恐怖のどん底へ一瞬にしてたたき込まれたが、気を取り直し、子供を探しに駆け出した。男の子2人は下の田圃で、女の子の2人は家の裏で遊んでいたと思った。お絵を限りに子の名を呼び探し廻った。幸いどの子も無事で、女の子1人が爆弾の破片で頭に軽い怪我を負っただけで助かった。祖母は孫4人の無事な姿を見て腰をぬかし、4人の孫を抱えて土間に座り込み観音経を唱え御佛のご加護を願っていた。
 そのとき納屋の屋根がそちこちから燃え出し、主人と2人で流しの溝水を掛け、消し止めることができた。」以上岩澤さんの話しである。米軍の帝都初空襲の日、成田市西和泉が空襲されたことを忘れないために寄稿した。又不発弾も処理されずそのままになっているので、自衛隊に依頼し記念品として保存したいと思っている。

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