光明堂は、元禄14年(1701年)に建立された新勝寺の旧本堂(元禄本堂)です。旧本堂(現釈迦堂)が安政5年(1858年)に完成されるまで本堂でした。昭和39年に、現大本堂の建立に伴う院内伽藍整備の一環として、現在地に移築されたものです。この建築は、方五間(桁行五間、梁間五間)のお堂で、屋根は入母屋造の棧瓦葺で、安政3年(1856年)の移築の際に、回りの縁及び外陣部の床を撤去して吹放しの土間としています。大工棟梁は江州坂田郡柏原の住人藤原朝臣石井又佐衛門尉家次で、彫刻は島村円鐡の作になります。なお、堂内正面の須弥壇上には、大日如来坐像、脇侍として愛染明王、不動明王が安置されています。
釈迦堂は、元禄本堂(現光明堂)の次に建立された新勝寺の旧本堂で、現在の大本堂の建立に先立って現在地に移築されました。この建物は安政5年(1858年)に完成しました。
この建物は、光明堂と同じ平面構造になる五間堂ですが、光明堂より桁行、梁間ともひとまわり大きく、正面には千鳥破風付の向拝を設けて荘重さを加えています。軒は二間繁棰で、屋根は入母屋造の瓦棒銅板葺です。外陣天井の竜及び左右天人の画は狩野一信筆であり、周囲の堂羽目に嵌め込まれた8枚の五百羅漢の彫刻は、狩野一信の下絵に基づき10年の歳月を費やした仏師松本良山(通称不動金兵衛)の作です。扉にある二十四孝の彫刻は、無関堂島村俊表の作、向拝及び欄間の孔雀、鳳凰、唐獅子等の彫刻は長谷川権頭藤原政義の作で、江戸時代後期の特徴がよくあらわれています。
なお、堂内には、釈迦如来坐像などが安置されています。
三重塔は、宝永6年(1709)に起工され、正徳2年(1712)に完成した中規模な塔です。心柱の墨書から、宝暦7年(1757)、享和元年(1801)、安政5年(1858)に修理されたことがわかります。
高さ約25メートルのこの塔は、初重(第一層)の柱や長押に地紋彫を施し、各重の尾棰を竜の彫刻とし、二間の板軒に雲文が浮き彫りされており、極彩色を施すなど華麗な塔です。この塔は、近世の塔としては、全体の均衡もよく、良質であり、江戸時代中期以後にみられる過飾な建物の、早い時期の遺例として貴重なものです。
周囲の十六羅漢の彫刻は、島村円鐡の作です。塔内には五智如来が安置されています。なお建立の際には、佐倉城主から成田の並木及び三之宮神社の松17本と将門山(佐倉市)松5本が寄進されています。
仁王門は、文政13年(1830年)に建立された三間一戸の八脚門で、屋根は入母屋造で銅板葺、正面に大きな千鳥破風、正背面に軒唐破風を付けています。この門は木割が太く、両側面の壁には欅の一枚板が用いられていることなど、材料や工法の特色がみられ、組物を三手先詰組とし、軒を扇棰にする点も八脚門としては珍しく、江戸時代末期における好建築の一つに数えられています。
門の左右には那羅延金剛(右)、密迹金剛(左)を、門の裏仏には多聞天(左)、広目天(右)が安置されています。また、頭貫上の各柱間には、後藤亀之助の作による「竹林の七賢人と司馬温公瓶破り」の彫刻がみられます。
重厚な外観をもち、軒の出の深さが構造材の保護に大変都合よくできている点は、日本の木造建築の構架に当たって、気候、風土を考慮してつくり上げた先人の知恵ということができます。
光明堂の前方西寄りに建立されているこの額堂は、文久元年(1861)の建立と伝えられ、建築様式からみてもその頃のものとされています。桁行正面三間、背面が六間で、梁間は二間、屋根は入母屋造で棧瓦葺です。現在は四方が開放されていますが、建立当時は背面が板壁であったようです。額堂としては、虹梁や木鼻など細部に至るまで本格的手法になる建物で、近世における庶民信仰をあらわす建築の代表例の一つです。
新勝寺には、このほかにもう一つの額堂がありました。「三枡の額堂」といって、文政4年(1821年)に七代目の市川團十郎(成田屋)が、壱千両を寄進して建立したものですが、昭和40年に焼失してしまいました。これらの額堂には絵馬類がたくさん掲げられていましたが、そのうちの22点は、千葉県の有形民俗文化財として指定され、保存されています。
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