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更新日:2020年11月5日

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紙きれ一枚で帰って来た主人 (本三里塚・女性・74歳)

 主人が35歳。私が4つ下で31歳の春でした。昭和18年4月。ハガキより一回りは大きいその薄桃色の紙には有無を言わせないような毅然とした書体で「召集令状」と記されてあったのです。
 これから先、つらく悲しい私の戦争体験は全てこの一通から始まりました。
 口数も少ない真面目な桶職人だった主人が縁あって、三里塚の日通に勤め出して間もないころでした。
 しかし、特別の感慨も涙もなく“ああやっぱり”と淡々と手にできたのは、地域では遅い召集で“赤紙は当然”の覚悟ができていたからでしょうか。4日後には、普段、滅多に口にもできないお赤飯と親類やご近所の方に見送られ佐倉の連隊に早々に入隊させられたのです。

 間もなく佐倉の連隊が、どこかに移動するという連絡を、その当日になって受けた私は、主人の好きな煙草とありあわせの食べ物を持って、大あわてで面会に伺いました。
 兵隊さんはすでに連隊本部を出発して、佐倉駅のホームから汽車に乗り込む直前でしたが、雑踏のホームで主人に会えたのは本当に幸運でした。主人は「よく間に合ってきてくれた」と喜んでくれました、結局この時のあわただしい10分程度の面会が、主人の姿を見た最期になってしまったのです。
 「年寄りと子供を頼むぞ」という言葉を残して、行き先も告げられていないらしい軍用列車に飛び乗って行きました。
 あの時、あの光景は、今でもはっきり瞼の裏に焼きついています。
 主人の出征の後、家には2人の年寄りと4人の子供が残され、私が大黒柱の変わりとなりました。このころ戦局はますます厳しくなり、地域でも戦死の訃報が出始めていました。そんなころです。2番目の倅が学校から帰るなり「母ちゃん、父ちゃんはまだ死なねえか。お国のための名誉の戦死っていいよな」って。戦死という意味も良く知らなかったのでしょうが、こんな恐い話が美化される悲しい時代でした。

 食べ盛りの男の子と、二人の年寄りを抱え、今日、明日の生活にも困る様になったのは、主人が出征したから間もなくのことです。
 それまで勤め人の専業主婦だった私は、生活のために御料牧場の畑で働くことになったのです。当時は日当制で、その切符をいただき交換所で換金する仕組みでしたが、僅かな給金のうえに物がない時代でしたから、これだけで米を買うことはとてもできませんでした。こんな時、着物と米を交換する方法を覚え、私の物がなくなると、主人の印ばんてんやモモヒキまでお米に替えました。
 日曜も祭日もなく御料牧場で働き、早朝と夜は自前のわずかばかりの畑と、借りた畑で野菜と芋を耕しました。ただただ生きていくのが精一杯で、毎日何が何だかわからないうちに時は過ぎていったのです。
 こんなに働いても生活は苦しく、口にできた物はほとんど芋と麦と野菜。肉や魚はとても贅沢な食べ物でした。

 子供にも助けられました。よくやってくれたと思います。私と一緒に働いてくれる者。食事の支度や家の事をやってくれる者。小学校に入って間もない一番の下の子でさえ、兄弟みんながやっているから自分もという気があったのでしょう。背がとどかない流し台の上に上がって洗濯を手伝ってくれたのです。しかし、見よう見まねでゆすぎ方を知らないものだから、乾くと石けんの粉で真白だったりして。
 ツギハギだらけの服に裸足にゲタばき、どん底の生活にもみんなが元気で堪えてくれました。つらかったのは、子供たちの学校の教科書を買う時です。とりわけ4人の子供が全部学校へ入った年などは大変でした。
 10銭位のお金にも困っていましたから、こんな時はいつもご近所のお世話になっていたのです。内地に残された家族がこんな生活と戦っているころ、音信のなかった主人から便りがまいりました。なんと中支に派遣されていたのです。それまでは、どこの部隊なのかも知りませんでしたのに。

 こんなころの20年8月15日、御料牧場で玉音放送を聞きました。しかし涙はありません。戦争に負けた悲しみよりも今日の生活を心配しなければならないほど苦しかったのです。そして、敗戦より数ヶ月経ち、世の中が混沌としていた時、主人が帰ってきました。昭和20年4月没という紙きれ一枚で。援護局へ遺骨を受け取りに行った義兄に渡されたものは、遺骨でも遺品でもないひとつの戒名だけでした。
 中支からシベリヤへ抑留されていたことも、この時まではまったく知りませんでした。
 出征間もないころ「名誉の戦死…」とハシャイデいた子も、父の死を現実と知り、泣いていました。少し成長していたのですね。

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